日高亮助翁之頌徳碑

日高亮助翁に関する碑

日高亮助翁頌徳碑
【撮影場所】
鹿児島県南種子町平野西之研修センター
【撮影日時】
2007年7月8日/10時08分

 南種子市街地から門倉岬に向かうこと約10分でこの地に着きます。西之公民館入口付近に記念碑が建てられています。石碑の右に碑文が刻まれています。その碑文は次のとおりです。

 初代村長
 日高亮助翁之頌徳碑
            鹿児島県知事土屋佳照書
初代村長 日高亮助翁は、嘉永四年一月十五日西之村下西目日高善助の長男として生る。
幼くして英智衆に秀で長するに及んで温厚篤実頗る進取の気性に富み期せずして郷党の信望を集む。明治十二年新政権による戸長制の実施に当り坂井村島間村西之村三ヶ村の戸長役場が島間村に設置さるるや選ばれて戸長となる。明治二十二年市町村制の施行により南種子村が誕生し民選による初代村長に選任された。新しい制度のもと昼夜を問わず寝食を忘れ村の発展と村民の福祉に努め明治二十五年任期満了で退任した。当時村役場は茎永にあって東に片寄っている事で争が起り明治三十一年分村運動による請願書が提出され南種子分裂の危機に直面した。この事態を収拾し東西の民心の融和をはかるには穏健で住民の信頼が厚く経験豊かな日高亮助翁の再出馬を求める声が強く明治三十二年再び村長に選任された。日露戦争をはさんで二期八年の間は各種の要因による経済的な困難や住民生活の苦しみが増すなかにあってよく民心の安定を計り各産業の発展或は教育振興に粉骨砕身力を尽し村政の基礎を確立し明治四十年任期満了により退任した。翁の努力にも拘らず念願の東西の融和はその機熟せず、悲願は後輩に引継がれる事になり後大正二年に至り役場の上中移転が実現した。戸長時代村長時代と十数年にわたり封建時代から新しい時代への過渡期に分村の危機を脱し新生南種子村を創り上げめざましい発展をなし得たのは実に翁の清廉で郷土愛に燃えた不屈の情熱と衆に優れた手腕更にたゆまぬ努力の結果に外ならない。南種子村誕生百周年を迎え翁の遺徳を偲び郷土の新たな時代への飛躍を祈念してこの碑をこの地に建立す。
          平成元年十二月吉日
                     西之地区公民館員一同

 碑文は以上です。文章の中で読み違いがあるかもしれません。ご了承ください。

2018.8.3〜