海難之碑

海難に関する碑

海難之碑
【撮影場所】
鹿児島県南種子町西之野尻公民館
【撮影日時】
2016年10月25日(火)/14時18分

 南種子町西之野尻公民館にある記念碑です。現在の記念碑は、昭和六十一年に改建された記念碑です。その記念碑には、次のような碑文が刻まれています。

 海難之碑

     県漁連会長 山中貞則 謹書
衆議院議員

               新留己義刻

漁期を知らせる、ほととぎすの声に海の彼方屋久島の魚場をめざして、西之浦の各漁舟が多数飛魚漁に出漁して行く、野尻浦も二隻の舟に二四名の若者たちが乗りこみ、その中に加わった。屋久島は小瀬田浦を拠点とし漁撈に努力したが、天候も悪く、大漁の夢は空しい連日である。時あたかも郷里は、春の農作業の大多忙の時期で人々の胸中は、気を揉む毎日が続く。この時漁師たちの決断の協議もなされ一応漁を中止引き上げることになった。時に昭和七年六月十六日の朝、風波共に静かな小瀬田港を後に沖へ沖へと乗り出した。高い山影の海辺は、静かでも大海原に出て見ると、南西の風は、刻々と強まり、瞬くうちに浪のうねり高く、海を巻流れる潮流は怒涛荒れ狂う海上となり、舟は木の葉の如く浮き沈む、各舟共に決死の航海で辛うじて、死線を切り抜けた漁舟の中で野尻浦の一隻が無念にも強力な烈風と山の崩れるが如き、三角浪を受けきれず野里福次郎氏外十人の若者たちが舟諸共海中に破散したのであった。行手はなつかしい島影を見つめ乍ら、必死の泳法も空しく万運つきた人々の悼しい最期であった。中でも只一人小脇孫一氏が城ヶ崎にたどりつき生存者となった。家の大黒柱を失った部落の多数の家庭は、文字通り火は消え無明の運命の中に涙と哀別の声に明け暮れた。時の流れの中に天の導きを感じ取る日が訪れ父を失った母子家庭、夫を失った妻子の情念、その運命を克服し生計の維持と子弟の成長へと一念結集の日々が初まった。星霜流れて四十六年、今や各家庭も野尻部落も正気蘇り豊な家業と隣保共助の部落つくりに、一意努力が続けられている。今日部落総意に依り災いを克服し新しい人生と部落つくりに精進した歴史の跡を後世に伝えんと遭難の日を期して之の碑を建てる。
浜田藤太郎 文
岩坪 安昌  書
小脇 勝男 館長

   死亡者
野里福次郎 四十二才  小脇孫蔵 三十六才
大勝元吉  三十八才  野里長助 三十四才
山野長市  三十八才  小脇仲助 三十二才
平石萬三  三十四才  小脇村男 三十二才
大勝九一  三十四才  大勝利八 三十一才
山野徳一  三十三才  野里椎次 二十八才
大脇歌蔵  三十一才  大脇彦次 二十八才
大脇誠一  三十一才  大脇善六 二十七才
小脇武一  三十 才  大脇実充 二十一才
小脇休助  二十八才

                昭和五十三年六月十七日

   生存者         建立者 野尻部落公民館
小脇孫一  三十八才          小脇忠男
大勝菊次郎 四十五才          大勝義則
大脇次郎七 四十一才  代表者    大脇助二郎
大脇常一  三十九才          大脇利杖
大脇彦平  三十七才          大脇鉄彦

 碑文は以上です。文章の中で?は読めない字、或いは変換不能の字です。なお、文字によっては読み違いがあるかもしれません。

2016.12.27〜