宮園豊則先生顕彰碑

ふるさと種子島 > 種子島の記念碑 > 西之表市の記念碑 > 宮園豊則先生顕彰碑

宮園豊則先生に関する碑

宮園豊則先生顕彰碑
【撮影場所】
鹿児島県西之表市安城小学校
【撮影日時】
2007年6月30日/15時01分

 西之表市立安城小学校正門付近に記念碑は建ててあります。宮園先生のことについては、私が小学生のとき、担任の先生が紙芝居で紹介していました。今でも覚えています。話を聞くと感動せずにいられません。記念碑の横に案内板がありますので、そちらも紹介します。碑文は次のとおりです。

 宮園豊則先生顕彰碑
 昭和二十三年九月一日 文部大臣 森戸辰男書
 鹿児島縣熊毛郡西之表町安城小学校宮園先生は教え子三名の生命を逆まく怒涛より守り一九四八年八月十四日午後四時その若き身を安城の海深く没した
 先生は一九二二年二月十八日この地に生れ幼くして家族と共に朝鮮に渡り克苦勉励生活と斗い教師としての信念を固め学校教育実践家として出発した
 その間太平洋戦争起り日本軍国主義敗れ郷土に帰り母校の教壇に立つ身となった 愛の教師宮園先生は文化日本建設のため常に児童の中に生き一方正義感と教育復興の熱意は認められ熊毛郡教職員組合書記長に推され児童のため献身的生活と組合員のための果敢な斗争の生活に全生命を擲った
 先生の担当する六年生は自治会に於て鹿児島市への修学旅行を計?し資金獲得のため夏休みの稲刈作業を決定した その日稲刈作業後児童の希望を入れ水泳練習を始め沖へ出て楽しげに泳ぎ廻る児童達をみまもっていた 突如起った潮流の変化により三名の児童の危機を見た先生は先つ二名を運び三名は死力を盡して救いあげたが自らの二十七才の生命は永遠に荒海の彼方に消えた
 この報一度傳わるや町民は蹶起し熊毛郡教職員組合が立ちあがりとなり一万二千の鹿児島縣教職員組合が中心となって全縣民に哀悼と顕彰の計?を発表した 忽ち全国的な興論が先生の死をいたみたゝえ一つの現れとして顕彰碑が地元民の総力と協賛者の協力によって建てられた
 児童よ 同士五十万教職員よ そして文化日本建設をめざす全国民諸氏 この碑のある限り宮園先生の生涯を吾々の生涯として 正しく強く進もう
一九四九年一月二十八日 鹿児島縣教職員組合
協賛 日本教職員組合 日教組九州協議会 文部省 鹿児島縣
縣教育委員会 縣教員互助会 縣教育会 縣図書館
縣PTA連盟 縣連合青年団 各新聞社 各種諸団体

 碑文は以上です。文章の中で、?は判読できない文字、あるいは変換不可能な文字です。なお、間違って読んでいることもあるかもしれません。
 次に案内板は次のとおりです。

 宮園豊則先生顕彰碑
 宮園先生は一九二二年二月十八日、安城平山に生まれ、幼くして朝鮮に渡り、苦しい生活の中で勉学に励んだ。成人して教師としての信念を固め、郷土に帰りこの安城小学校の教壇に立った。
 愛の教師宮園先生は、文化日本建設と教育復興の熱意をもって、常に児童の中に生きた。
 先生の担任する六年生は鹿児島市への修学旅行を計画し、資金を得るために、夏休みの稲刈り作業を決定した。
 一九四八年八月十四日、稲刈り作業後、児童の希望を入れ、水泳練習を始めた。沖に出て、楽しげに泳ぎ回る児童を見守っていたが、突然起こった潮流の変化に三名の児童の危機を見た先生は、まず二名を運び三人目は死力をつくし救い上げた。しかし、自身は力つき、午後四時二十七才の若き身を永遠に安城の海深く没した。
 この報が伝わると、たちまち全国的な世論が先生の死をいたみたたえた。
 その一つの現れとして、地元民の総力と協賛者の協力によって、一九四九年一月、この顕彰碑が建てられた。
 この碑のある限り、宮園先生の生涯を我々の生涯として、正しく強く進みましょう。