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【岩田さんの戦争手紙】

愛知県在住の岩田さんから戦争で、兄弟を亡くした手記の手紙が送られてきましたので、その手紙を紹介することとしました。できるだけ多くの人に知っていただきたいと岩田さんは語っています。岩田さんが、父に聞いたのと、父が母に聞いたのと、岩田さん本人が、四男に聴いた肉声の内容です。

薄いピンクの紙が、三男政雄に昭和16年11月末日ごろ、四男三郎には、昭和18年3月末日ごろに、何れも深夜に兵隊軍人みたいな人が、小さい家岩田家に二枚届けたという。叔父二人は、分からず、受け取ると、その後で父は涙が溢れていたそうです。訳が分かっているにも当たり前。そう赤紙(召集令状)でした。

ところで、家を解体したときに、三男政雄が書いて残してあった詞、「海闊天空」、「干戈倥偬」、そして、四男三郎が書いた詞、「砲弾弾雨」、「空山一路」などが見つかっています。

三男政雄は、最初広島県呉へ行き、それから千葉の館山砲術学校へ、そしてまた呉に戻り、その後日本を離れ、比島へ出兵しました。

一方、四男三郎は、門司からラバウル、そして、昭和18年8月27日にビスマルクへ。その後、ラバウルと聞いております。赤紙が来る前、三男の兄さんは公証役場に就職が決まっており、父は絶望で口も開くことも無くなったそうです。そして二人は出兵、家には、私の父とおじいさんが残ったそうで、あとは母さん。一気に寂しい家になり、父親は無言で涙がダクダク流れていたそうです。二人には声をかけることも無く、絶対に無言だったらしいです。そして、頭が狂い酒乱になり、すぐなくなったそうです。

そして、米国の真珠湾攻撃から、南島へ進出してきて、ラバウルにも凄い空からの攻撃にあったそうで暴弾が落とされ、片腕を落とした人が多くいたと四男が言っていました。そして、衛生が悪く病死、餓死が増えすぎて、もう武器も食糧も無いに等しく、なんでも口に入れ人肉も食べたそうで、地獄だったそうです。しかし、米国は首都のあるルソン島、マニラを狙いにむかい南の小島からそんなにはいなかったといっていました。また、四男三郎は、ビスマルク諸島に出兵し、昭和18年2月〜昭和20年4月までそこで戦い、2等兵→1等兵→兵長→伍長となり、その後、昭和21年5月16日、名古屋港に復員しました。戦地では、敵の攻撃よりも、餓死、飲み水がないのに苦しかったと話しています。オーストラリア人とも闘ったそうです。 

そして、マニラに上陸、日本は万全に立ち向かい、何と米国に勝利。その時にはなったマッカーサーの言葉が「必ず望ってくるからな」でした。そして、本当にマッカーサーは空、海、陸と全て攻撃に来て、米国人以外は皆殺し、統殺。標的などなし。隠れている以外は日本人、フィリッピン人は皆殺し。とうとうマニラを占領し、日本へと向かったそうです。

三男は、背が低く、父は「ちっちゃい兄ちゃん」と呼んで愛知から広島まで、三回も面会にいっていたそうで、その報告を聞いてからは、哀しみしかなくなったそうで、父は(おじいさん)頭が狂い、酒乱になり、あっという間に死に至ってしまったそうです。もう家は父とおばあさんだけになりました。その後、三男政雄は、比島マニラ市街地で戦死。

これからもう、残酷すぎて書くのは、またの機会にして、国土、沖縄、離島と米国は占領を始めていきました。それでもう一言、国は、戦没者の後始末は表向きだけ、比島は遺骨を倉庫に詰め込んであるそうです。また、92歳になるお爺さんの話しによると、特攻隊は、志願って書いてあるけど、軍歴書はあまりあてにならないという話も聞いているとか。

次回は、まだ米国の海外の無謀さ、本土の色々の空襲を記します。

写真は、岩田さんから送られてきたものです。昭和17年1月1日の読売新聞の記事です。全面に真珠湾攻撃のものです。タイトルが、「壮烈!真珠湾爆撃の実況」というのがついています。

真珠湾攻撃の読売新聞の記事および写真真珠湾攻撃の読売新聞の記事および写真真珠湾攻撃の読売新聞の記事および写真真珠湾攻撃の読売新聞の記事および写真

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2019.9.22〜