山田歌子の碑

山田歌子に関する碑

山田歌子の碑
【撮影場所】
鹿児島県西之表市立榕城中学校
【撮影日時】
2007年9月24日/13時23分

 西之表市立榕城中学校の西側にこの記念碑が建立されています。山田歌子は、京都に生まれ、その後薩摩藩士の山田清安と結婚しますが、清安は殉死し歌子は種子島に流されてしまいます。大変歌がうまかった方で、記念碑にも刻まれています。写真でも分かるとおり、題目がなく碑文が刻まれています。

 山田歌子の碑
山田歌子刀自ハ山城国淀藩士町田内貞法印ノ次女 文化七年生レ風ニ温稚歌ヲヨクシ儀容アリ近衛家ニ仕フ 後香川景樹ノ高弟タリシ薩藩留守居山田清安ノ宝トナリ内助功多シ国ニ帰リテ嘉永二年十二月清安諸志士ト共ニ 難ニ殉ス刀自坐シテ種子島お預トナル松寿院千加子後室情ジ 家臣柳田休助及妹松子ニ厚ク遇セシム性貞淑節ヲ守リ桂園 ノ風ヲ傳へテ窮愁ノ裡吟咏自慰メ家集アリ作楽園遺稿加藤(雄吉?)ノ 末ニ刋久万延元年八月十六日殉ス年五十一雲ノ城ニ葬ル本年九十 年忌ニ當リ遺詠ヲ刻シテ追遠ノ誠ヲ表スト云フ

古里の淀野よおふるあやめ草けふを心にひきうつしけり    小門の汐子初編

夢よだにまだ志らざりし荒磯の波を枕のもとよきくかな      同      二編
大内の山代向雪あとつけて君と光もみも遊びしも乃を      
昭和十三年八月 西之表町榕城校区婦人会建

ふるさと歴史散歩に書かれている文章は、次の通りです。

山田歌子は、京都に生まれ、和歌を縁に薩摩
藩の京都留守居役である山田市郎左衛門清安と
結ばれます。その後、歌子を連れて帰藩した清
安は、第二十八代藩主斉興の跡目相続争い(お
由羅騒動)の元凶として切腹を命じられ、歌子
も夫の罪に連座し、嘉永三年(一八五〇)種子
島へ配流されました。
種子島では、第二十三代久道夫人松寿院(女
の殿様)の厚遇を受け、また、歌人の平山優子
との交流も深く、形式にとらわれ
ない歌風作りに努め、種子島歌壇
に大きな影響を与えました。
この碑は、明治十三
年(一九三八)西之表
榕城婦人会により建て
られました。

 碑文は以上です。?は判読できない文字、或は変換不可能な文字です。また、一部現代文字に変換しています。なお、読み違いがあるかもしれません。ご了承ください。

※ 2020年(令和2年)1月10日(金)に撮影した西之表市中目旧榕城中学校跡西側土手沿いに建立されている山田歌子に関する記念碑「山田歌子の碑」を紹介しています。この動画の中には、中央線鉄砲館前通り記念碑入口付近、記念碑へ通じる階段、記念碑周辺、ふるさと歴史散歩の案内文、山田歌子の碑の碑文及びその周辺の風景などを収録しています。なお、碑文は字幕で本文を流しています。

なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。

山田歌子の碑 西之表市榕城中目旧榕城中学校跡西側に建立 - 種子島の記念碑

2014.3.18〜