棒踊りは、島津藩が士気を鼓舞するために、棒術を踊りに仕組んだのが始まりと言われています。種子島の各地に棒踊りは伝承されており、明治十五、六年頃、加治木、加世田、日置から習いこんだと言われています。油久校区の棒踊りは、加世田から入り込んだと言います。毎年、小学校・校区の運動会や秋の油久神社の秋季大祭で奉納しています。
棒踊りの服装は、白の短パン姿で、頭に白いハチマキとタスキがけ、腰に黒帯びをして、六尺と三尺の棒を使っています。そして、正面には、歌を歌う太鼓がいます。
棒踊りは、入場、棒突き、本踊り、退場から構成されています。棒踊りの歌にあわせて入場します。このとき、途中から駆け足になるところが、油久の棒踊りの特徴です。
写真一枚目は、棒踊りの本踊りです。本踊りは、二人一組、または、四人一組になって踊ります。踊る人数も多いので、棒同士が打ち合いになると、館内に勇ましい棒の音が響きわたります。前後左右に、打ち合いながら踊っていきます。踊りも巧みな動作で、勇敢に子供たちが精一杯踊ってくれました。棒同士が打ち合いになり、その時発する音が何とも民族的な響きになっています。子供たちのきびきびした動作が印象に残りました。
写真は、本踊りの模様です。低姿勢になることもあります。左右には、始終勇ましく棒を振っている踊り子が配置されています。 | |
写真は本踊りの模様です。棒踊りの踊り方にもいろいろ変化があります。 | |
写真は六尺の棒だけで踊る本踊りです。棒踊りは、二回繰り返されます。さらに、三尺の棒に持ち替えて二階踊ります。 |
油久棒踊り
四界を照らすこの国に 大和男子の血を受けて
生まれ出でたる青年の 結び固し収養団
霧島松は 黄金花咲く
焼け野の雉は 丘の背に住む
おせどが山は 前はだいかわ
琉球におじゃるなら わらじをはいておじゃれ
琉球は石原小石原
※ 2013年2月9日(土)、中種子町種子島こりーなで行われた第2回中種子町文化少年団発表会で、油久っ子棒踊り隊の美座の棒踊りを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
【第2回中種子町文化少年団発表会〜油久っ子棒踊り隊の美座の棒踊り】
※ 2012年10月21日、中種子町油久神社の秋季大祭で奉納された油久子供会で踊られた棒踊りを撮影したものです。この動画に中には、棒踊りの入場、棒突き、本踊り、退場を収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。