平成17年4月9日、天気も程よく回復してきたので散策することにしました。遠くを見れば霞んでいますが、近くなら大丈夫ということで、古田に向かうことにしました。西之表市街地から車で走ること約10分で、古田中央公民館前に着き距離にして約9キロです。その公民館の前には、民俗芸能である「獅子舞」と「棒踊り」を紹介する案内板があります。
その公民館の左側の道を少し先へ進むと、先ほどの民俗芸能を奉納する豊受神社があります。その神社の右側に「水力発電所跡約4キロ下流」と書かれた案内板と「ふるさと歴史散歩」の看板が立っています。その案内板を見ると「大正2年3月種子島電気株式会社が設立された。翌年7月、古田大川比良に取水口を設け川脇川から毎分18.3トンの水を引用し、字田代嵐に古田水力発電所(出力60kW)が設置された。昭和26年5月に九州電力鰍ノ統合され、昭和46年に閉鎖された。」と説明が書かれています。
古田を流れている川脇川は、種子島で一番大きい川です。河口は安城川脇にあり、川の長さは約10キロです。水量もあり、渇水のときでも水が涸れることはありません。その川が村の中心部を流れています。周囲を山で囲まれており、種子島で一番寒いところとして有名です。冬は霜が降りることはしょっちゅうで、たまに雪も降ることもあります。主に田畑で稲作やお茶、たばこなどを生産しています。特に山の頂上付近の番屋峯では、お茶の栽培が盛んで、種子島でも一番の生産地です。また上之町ではポンカンの生産も行っています。稲作は山に囲まれているので、田植えもほかの地区に比べて遅く、昼と夜の寒暖差が大きいので、収穫された米の味は、種子島で一番おいしいと言われています。
神社の前の道を下流に向かって約1キロ進むと、橋が架かっています。御田橋です。その川は山刀平川といい、この橋の70メートル下流側で川脇川と合流しています。この橋に向かって左が下流側、右が上流側です。さらに進んで行くと、段々山も深くなってきます。道路の左側が川で、右が山手です。大雨のたびにがけ崩れが発生するのか、あちこち倒木や石が道路まで散らかっています。周りは杉や竹がたくさん生えています。その竹が道まで追いかぶっているので、少々通りづらいです。
1キロくらい下った左側に、堰堤が見えてきたので、川に出てみることにしました。その堰堤の長さは約20メートルと推測されます。道路の反対側に取水口があります。堰堤の下で四方を見ると、風はほとんどなくて微かに小枝が少し揺れている程度です。堰堤の川岸には椎の木や山桜もあり、花も満開になっています。時折その花びらが舞い落ちてきます。たまに川の流れの中にも落ちてとても風情を感じます。
「えんていにひとひら舞い散るサクラかな」
長閑な山の中は気持ちいいねぇ〜。堰堤から流れるときのせせらぎの音が何とも快いことか・・・。しかし残念なことに川の水が濁っていることです。あとで分かったのだが、上流で河川工事をやっていたのが原因でした。濁った水は自然に似合わないしね。やっぱり透明じゃないとね。大木の椎の木の下を見ると、実がたくさん落ちています。拾って割ってみると抜け殻で時期外れでした。 反対側の川岸に行き、取水口を見てみると、長い年月が過ぎているせいか、竹が追いかぶり土砂で埋まっています。そして周りの川の中を見ると大量の土砂で、川の水深も浅くなっています。特に道路側は少々浅いが取水口側は水深もあります。上流側を見ると70メートル以上は深みが続いています。聞くところによると、大物の鯉がたくさんいるという。時折、小鳥の鳴き声も聞こえてきますが、何の鳥なのか分からない。堰堤から下流を見ると、あちこち川の両サイドがえぐられ杉が倒れています。道路に戻りさらに下流を目指して行きます。
道路沿いには、杉、ニガ竹、ツワ、いちご、シダ類がたくさん生い茂っています。堰堤から少し下ったところに、コンクリート製の導水路が今でも残されています。ほとんど破損していますが、その導水路の直径は80センチ前後あります。これだけの工事をするにはたいへんな苦労があったんじゃないかと思ってしまいます。車も全然ない頃で、ほとんど人力で工事をしたのではないかと想像しまう。途中にマンホールも残ってあり、第5マンホールと書かれています。書かれた文字は、はっきりと読み取れ経年劣化を感じさせません。川の中は大小の石がごたごたしており、河川工事で昔の面影などなくなっています。4年前の西之表豪雨で、この川もたいへんな被害が出ていました。
川脇川もたいへん寂しくなったものです。下流に向かう途中、右側に大きな砂防ダムも作られています。 その少し先に大きく左カーブになっていますが、その下の川の中に大きな石があり、今にも崩れそうな感じになっています。その石の上には木が生い茂っています。人里から離れているので、周りの木々も大きいものばかりです。山手には食わずイモもたくさん生えています。この食わずイモは、都会では人気があるらしい。時折、このイモを誤って食べてしまう人もいると聞きます。いがかゆくて食べられるものではないと言われていますが…。この食わずイモは湿地帯でないと大きく成長しないようです。
川の中を通って発電所跡に行くことにしました。川幅も広いがほとんど石だらけです。メモ用紙とデジカメを持っていますので、転げないよう用心しながら川を渡って行くと、どうにかその場所にたどり着くことができました。以前は橋が架かっていましたが、西之表豪雨のとき破壊されたようです。石や土砂がたくさん堆積しているので、放水路はまったく分からなくなっています。発電所建屋に向かうと、川岸の近くには、石垣や石で階段なども残っています。また、長い年月にも耐えて建屋もまだ残っています。入り口の扉もガラスも割れておらずそのまま残っています。
中に入ると右手に古ぼけた流しや壁には「整理整頓」て書かれた張り紙も残されています。中は何も残ってはいません。傷みも激しいところもありますが、全般的に、これだけの年月でちゃんと建っていること自体大したものだとつくづく感じることでした。特に天井などのハリは、今でもしっかりしているし、腐ってもいないのです。川沿いって本当は条件がいいかもしれません。外に出てみると、かわらは赤いもので、うしろのほうはツタが巻きついています。川沿いにはバショウもあり、何本か生い茂っています。建屋の左側には井戸のようなものなのか、放水路なのか分かりません。そして土手に水神の神様を祭ってあります。山手のほうに行くと、導水路もわずかに残っています。片方はコンクリートで穴を塞いでいます。その近くにも建屋があったか分からないが、そんな感じの跡が残っています。おそらく変電設備がここにあったのではないかと推測されます。そして井戸みたいなものもあります。何もなかった時代に、これだけの設備をつくったことに改めて感心するばかりです。古人の尽力に感謝する思いです。色々思いながら、この発電所跡を後にすることにしました。
古田でほかに有名なものがあります。それは古田御前です。古田御前は、第14代島主種子島時尭の側室で第16代久時の母にあたります。天正17年(1589)8月5日に42歳で亡くなり、豊受神社の右側にその墓地があります。古田御前にまつわる話はこんな話です。島主時尭公が国上村へ鹿狩りに行ったときのことです。水が欲しくなり人家に立ち寄ったところ、そこに娘がいて天目(湯飲み)を鍋のふたに載せて差出したそうです。はじめはぬるい茶を、次はやや熱めの茶を、最後は熱い茶を出したのです。それを見た時尭公は、気転の利く娘にすっかり感心し、娘を見初めて側室に迎えたといいいます。そして生まれたのが久時だったのです。彼女は種子島の厳寒の地である古田に母子ともに住んで、久時の心身を鍛え武芸に励ませていたのです。その後、久時は種子島鉄砲隊を率いて、朝鮮の役に出兵して活躍していきます。いつの頃から古田御前というようになったかは分かりませんが、彼女の子育ては、今でも賢母の教えと語り継がれています。古田小学校には、賢母の遺蹟碑が建てられ、さらに校歌にも賢母の教えの歌詞があります。
歴史と民俗芸能の村である古田の散策もこの豊受神社を最後に終わることにしました。
※散策日:平成17年4月9日
「村之町」古田〜中央公民館前をスタート
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豊受神社前を通過
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御田橋を通過
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水力発電所の取水口(堰堤)←写真1、2枚目
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水力発電所の導水路←写真3枚目
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道が荒地で、川の中を散策
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水力発電所跡地←写真4、5枚目
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引き返す
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終点豊受神社←写真6枚目