種子島宇宙センター〜門倉岬

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 天気予報によれば、次第に回復状況だとの予報が出ていたので散策をすることにしました。今回は南種子町の種子島宇宙センターから門倉岬までの散策です。風も少しあり、西風が吹いています。今年は黄砂が多くて西風になると、天気がよくても霞んで遠くが見えない状態が多いのです。一路門倉岬まで向かうこととしました。西之表を出るときは曇っていましたが、種子島空港を過ぎたあたりから小雨がぱらつくようになりました。南に向かうほどその傾向が強くなってきます。西之表を出てから約一時間、門倉岬に到着です。普段は人影もありませんが、駐車場に車が一台止まっています。タクシーを待つこと約10分、宇宙センターまで乗車することにしました。

 運転手さんと話が弾むなか宇宙センターに到着です。宇宙科学技術展示館前で降車して、ここから散策開始です。ちょうど10時出発です。少し歩いていると、左の花壇の花にたくさんの蝶が蜜を吸ったりしています。人間が近づいてもあまり逃げたりしません。それ程蜜に夢中になっているのか分からないけど…。家族連れで花壇の前で写真を撮ったりしています。少し進むと、左カーブになっていますが、右に行けば管理棟などがあります。さらに進むと左側に竹崎発電所の建屋があります。そこを過ぎると海岸が見えてきて絶景を楽しむことができる場所です。このホームページで「南種子町の名所・風景」の「竹崎海岸」で紹介しています。どうぞ、ご覧ください。

 ここを過ぎると種子島宇宙センターの構内道路を後にすることになります。途中、道路工事をしているところがあります。そこを過ぎると下り坂になります。道沿いには、タツナミソウ、ミヤコグサ、ウマノアシガタ、そしてところどころにヒルザキツキミソウも咲いています。遠くでは、ホトトギス、ヒヨドリの鳴き声も聞こえてきます。静かな雰囲気です。水の流れの音も聞こえてきます。何とのどかなことか、田舎の静けさなのかと思ってしまいます。時折車が通るので、雰囲気がいっぺんに壊れてしまいます。水田の稲穂は20センチくらいか。山を見れば新緑のやや黄緑っぽい色が鮮やかです。道端にはハハコグサ、シロツメクサ、山のほうはウバメガシ、マツ、マテバシイなどたくさん生い茂っています。

 さらに進むと茎永水稲生産組合の倉庫の前の道路を通ることにしました。両サイドは水田です。しかし、休耕田もあります。この道沿いには、オオニワゼキショウ、そして少しレンゲもあります。しばらく進むと県道に突き当たります。この周辺は、種子島宇宙センターに出入りしているロケット関連企業の事務所があります。種子島宇宙センターも含めてここは茎永です。水稲が盛んな地域です。超早場米として知られています。

西南戦役従軍戦没者慰霊碑  左へ100m進むと、月見橋が宮瀬川にかかっています。その橋から北側を見ると、3つに分流しています。この橋周辺から茎南小学校方面を眺めると、侵食された山などがとてもきれいで長閑な雰囲気を感じることができます。この橋周辺にはヤブジラミがたくさん生えています。

 橋を過ぎると、左の山手の方向から、時折「ケンケン」の鳴き声がしてきます。「ケンケン」とは、種子島弁で「きじ」のことをいいます。右側にはアジサイが花を咲かそうとしています。またハイビスカス、ヒルザキツキミソウが咲いています。この周辺には、道沿いにアマリリスを植えており、その花がきれいに咲いています。しばらく行くと、右側に「赤米館」が見えてきます。道路を挟んでその反対側には、「宝満神社」の入口があります。

 赤米館の左側の道を行くと右手に、直径は80センチくらいのイヌマキの大木があります。さらに進むと右手に西南戦役従軍戦没者の墓地があります。門柱を過ぎると、西南の役従軍戦没者招魂慰霊碑とその左に戦没者の名前を書いた顕彰碑があります。慰霊碑は、西南の役終結後120年記念で平成10年5月に建立されています。その顕彰碑を紹介すると、

丁丑役 明治10年(1877年)西郷隆盛随行
西郷隆盛軍 貴島 清一番隊 二分隊
私学校 種子島分校 茎永支校選抜志士
3月15日 於肥後の国田原坂戦死 4名
3月24日 於肥後の国植木戦死 3名
4月14日 於肥後の国白旗山戦死 1名

 この茎永から8名の戦死者が出ています。私は西南の役に種子島から出兵していたことは全く知りませんでした。西郷さんと一緒に戦ったんだと思いながら慰霊碑に手を合わせていました。さらに奥まで行ってみることにしました。少し草で荒れています。直径90センチを超えるようなイヌマキの大木があります。ほとんど日が差さないせいか、コケがたくさん生えています。御田の森、舟田、オセマチ、御田 両サイドには献灯柱もあります。そして階段の上に墓石なのでしょう大きな石を立ててあります。その石にさらに笠を掛けたような平な石を水平に置いています。前には花立やお神酒を置く物もあります。戦死者のご冥福を祈りながら手を合わせることにしました。やや新しい献灯柱が右側にあり、それにはこう書いてあります。

雨は降るふる人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂

そして献灯を寄贈した人の名前が書かれています。色々な歴史がたくさんあるんだと思いながらこの墓地を後にしました。

 道にでてさらに進むと、「御田の森と舟田」と「オセマチと御田」の案内用の看板があります。その内容を簡単に説明すると、

御田の森は、稲作の神が宿る神聖な森で、春に赤米の苗を祀った後、オセマチにその苗をお田植えていきます。御田の森の前の舟の形をした田は舟田と呼ばれ、お田植えが済んだ後、宝満神社の世話役人が夫婦で「お田植え舞い」を舞うところです。またオセマチと御田は、赤米を栽培する神田です。4月上旬にお田植えの歌にあわせて、男だけでお田植えをするとのことです。宝満神社 写真で、右手前が舟田、その先が御田の森、森の右横で竹が見えているところがオセマチ、その奥が御田です。茎永も水田地帯ですので、こうやって水稲の神様を大事にしているんですね。収穫した稲は、御田の森で祀られます。また秋には宝満神社にも奉納されるようになっています。

 県道に出て、宝満神社へ行くことにしました。久しぶりの参拝です。この神社周辺は自然がいっぱいです。なかでもイヌマキが入口付近から神社周辺までたくさん生息しています。そして神社の西側には大きな池があります。宝満の池です。この池については、「南種子町の名所・風景」で「宝満の池」で紹介しています。そちらで池はご覧ください。参拝道路を進んでいくと、左に駐車場があり、その上に広場があります。普段はゲートボール場になっています。入口から適当な間隔で、紅色の献灯がたくさん道沿いにあります。参拝道はほとんど光が差し込んでこないので、少しひんやりしています。雑木林にはシダ類が生息しています。池もあるせいか、ヤブ蚊がつきまとってきます。手水洗い場もあります。そして拝殿に行き賽銭箱へ入れた後、拝礼して参拝も終わりです。

 県道に戻り、門倉岬を目指して行きます。この神社を過ぎると上り坂です。道沿いの木々を見ると、もう少しでアカメガシワが花を咲かそうとしています。坂の途中に「ここは赤米のふるさと千石村」の看板があります。江戸時代茎永村は1113石とれたのにちなんで千石村としたそうです。そしてその左に千石村を中心とした案内板があります。ここを少し進むと、左側に「宝満の池展望所」があります。お立ち台や眺めやすいように周りを払っていますので、気遣いがとてもいいです。展望所付近には真赤なハイビスカスやアジサイも植えています。写真も撮り終えここを後にしました。

 道沿いにはトベラ、スダジイ、ウバメガシ、タブノキなどたくさん見ることができます。何といっても緑が鮮やかなことです。ホトトギス、ヒヨドリなど時折鳴き声が聞こえてきます。展望所を過ぎると下り坂です。しばらく進むと聞語(きんご)橋が架かっています。川の中を見ると田んぼのせいか、やや透明度が悪くなっています。この橋を過ぎると左側にはニガ竹があります。竹の子もあるような感じです。道沿いにはアジサイを植えています。しばらく歩くとまた坂道です。坂の途中から左にハイビスカスを植えていますが、強風でほとんど倒れています。今度は右カーブの緩やかな下り坂になります。周囲にはスダジイや竹などあります。左側にハイビスカスを植えていますが倒れてはいないのだが、払い機で根元を切られたりしています。右にもアジサイやハイビスカスを植えています。

 しばらく進むと右手に集落が見えてきます。その前は田んぼで、田の水など見回っている人が見えています。下り終わると左手にも水田が広がって見え、ず〜っと緩やかな左カーブが続いています。水田の中を見ると、まったく雑草が生えていないのに感心です。おそらく除草剤の効果だろうと思ってしまいます。水田など見ながら進むと郡川(こおりかわ)橋が架かっています。この橋から70〜80m先に郡原三文字のバス停があるT字交差点に突き当たります。右に行けば河内温泉センターを経由して上中へ、左は門倉岬経由島間へ行くことができます。もちろん左へ行きます。草花の写真を撮りながら進むと、一弁之崎(いちべんがざき)橋があります。川の中はコンクリートで人工川です。遠くには白サギが群れを伴って飛んでいます。この橋から150mくらい歩くと右側に花峰小学校があります。道路沿いの校庭にインギー鶏を2羽飼育しています。その鶏舎小屋の左に「インギー鶏とドラム・エルタン号」の案内板があり、なぜインギー鶏なのかこの案内板を読めば分かるようになっています。簡単に説明すると、

 明治27年(1894年)4月25日の夜半、南種子町下中の前之浜海岸に暴風雨にあったイギリスの帆船「ドラム・エルタン号」が漂着し、そのとき地元住民が力を合わせ乗組員を救助し手堅くもてなしたところ、帆船で飼っていた鶏11羽を住民に贈ったことから由来し、イギリスというのを種子島弁でインギーと呼んでそれが鶏の名前になったといわれています。

 ここから少し先に進むと左にインギー鶏の標柱が立てられています。さらに進むと右側に小さな神社があります。名前のない神社です。さらに進むと真所のバス停があります。そのバス停を過ぎると右に八幡神社があります。この下中地域も水田地帯ですので、もちろん水稲の神様を祀っています。「下中八幡神社お田植え祭り」は南種子町の無形民俗文化財に昭和47年3月30日指定されています。また神社と道路を挟んで反対側に森山があります。見るからに古墳を思わせるような感じです。神社の前の県道から水田の中の森山に向かい、森の中を見るつもりでしたが、少々荒れていましたのであきらめることにしました。その森山の前の農道を西に向かって進むことにしました。土地改良された広大な水田地帯です。水路にも田んぼごと塩ビの仕切弁など設置されています。周りは何もなく水田だけです。ず〜っと歩いていくと人家に突き当たり、そこを右へ行き県道に出ることにしました。

 県道にでて進むと、右側に広場があります。普段はゲートボールをしているのでしょう。周りにはセンダンが生えており花をいっぱい咲かせていました。道路までセンダンの心いい匂いがしてきます。しばらく進むと右側に石が積まれているところが見えてきました。よく見ると「中近世における西ノ村仮屋跡」の標柱があります。この周りには石積みがあちこちあるようです。私が乗車したタクシー運転手の話によると、この周辺に鉄砲伝来でおなじみの「西村織部之丞」の屋敷があったと言われているとのことでした。見るからに石積みもしっかりしていましたので、言われてみれば「そうかな〜」と感じることでした。ここを過ぎると少し平坦ですが今度は急な上り坂になってきます。七色観望台 上り坂の途中に「七色観望台」や「七色展望所」があります。右側に浜田藤太郎記念「七色観望台」の案内板があります。どうして「七色観望台」なのか記念碑が建てられているので、簡単に説明すると、

 高台から雄大な自然のパノラマを展望でき時には七色の景観を有し種子島随一の景勝地であるという。浜田藤太郎氏は明治37年1月西之本村に生まれ、昭和38年4月南種子町長に就任し、3期12年町政に尽くしてきた人物で、晩年は愛して住んだこの土地を町に寄贈しその遺志を承けて七色観望台と命名したとのことです。

 観望台にはたくさんの記念碑があります。景色もたいへん素晴らしいところです。これより少し先に七色展望所があります。どちらかというと私はこの七色展望所のほうが眺めはいいですね。のんびり見つめるのもいいですよ。遠くには種子島宇宙センターも展望でき最高の場所です。ここから写した写真は、「南種子町の名所・風景」で「七色展望所」をご覧ください。

 展望所を過ぎると門倉岬まで残りわずかです。しばらく進むと十文字があります。右に行くと上中へ、左に行くと門倉岬です。ここからず〜っと緩やかな下り坂です。途中左側に「ポルトガル船到着記念碑」の案内板があります。倒れているので車からはほとんど気づかないかもしれません。そこまでの遊歩道があります。急な下り坂で車は当然行くことはできません。途中三叉路がありますが、そのまま行くと畑で行き止まりです。間違わないでください。右へ行くのです。さらに道幅が狭くなってきます。急な階段を下りると海岸の土手付近に記念碑が建てられています。その記念碑は、「鉄砲伝来 異国人上陸之地 従五位男爵 種子島時望書」と書かれています。この写真は「鉄砲伝来物語」で掲載する予定です。この地はちょうど門倉岬の北側に位置します。この前の海岸は釣りもできる場所です。磯遊びの人もいました。海もたいへんきれいです。しばらく海を見つめることにしました。

 帰りは急な上り坂で足はもうくたくたの状態です。道に出ると終わりも近いのか、急に元気が出てきます。しばらく行くと門倉岬の大きな文字が見えてきました。時計を見ると午後3時です。約5時間の散策でした。私にとって、これが最初で最後の散策になるでしょう。

※散策日:平成18年5月2日/10:00〜15:00/曇のち晴

種子島宇宙センター〜門倉岬の地図「茎永」種子島宇宙センターをスタート

竹崎」茎永

阿多羅経

コスモテック前を通過

松原」茎永〜「宝満神社」←写真3枚目
↓←写真1、2枚目
「宝満の池展望台」茎永

夏田」下中

」下中

真所」下中

本村」西之

「七色観望台」本村←写真4枚目

「門倉岬海岸」西之崎原

崎原」門倉岬終点