19代島主久基(栖林公)は、飢饉のときの救荒作物として甘藷に関心を寄せ、元禄11年(1698年)3月、琉球王尚貞に懇望して一籠の寄贈を受け、家臣西村時乗に栽培法の研究を命じています。時乗は下石寺の大瀬休左衛門に試作をさせます。休左衛門は、つるに実がなると思って棚を作りましたが実らないので、引き抜いてはじめて土中にできることがわかり、苦心の末に甘藷の栽培を可能にさせた人物です。
休左衛門は、栖林公から寿冢(生存中に作る墓)を賜っています。
現在でも、その年最初に収穫された一番大きな甘藷を、休左衛門の墓前に供える習わしが続いています。
「ふるさと歴史散歩」より。
※ 西之表市下石寺にある大瀬休左衛門の墓地を撮影したものです。動画の中には、墓地への道順、案内板、墓地などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。