豊山前田先生紀徳碑

豊山前田先生に関する碑

豊山前田先生紀徳碑
【撮影場所】
鹿児島県西之表市西之表榕城小学校校庭
【撮影日時】
2006年10月8日/10時22分

この記念碑は、西之表市立榕城小学校校庭に建てられています。その記念碑には次のような碑文が刻まれています。

碑文
豊山前田先生紀徳碑   正四位男爵種子島守時表題
豊山先生?之十年熊毛郡教育会樹石紀徳以不朽属彦文彦以疏歳在俤子之列諠不朽?也謹叙大要曰先生諱宗成字章?譲蔵豊山其號姓前田氏家世事子邑主種子島氏考諱宗恭號紫洲以文学著妣上妻氏先生幼受家学既長師事藩儒宮内先生興重野成?兜玉天雨諸老為友又習武枝尤精砲術然亦遂以文学者蓋其学宗程朱以躬践為?徳行可傳者甚多而其最大者三曰事主?忠文久間邑主幼太夫人視事擢先生為側用人職兼師傳先生輔導?救知無不言?忤太夫人??者?之禁錮子家将謫遠島其友?解見赦尋為家老明治維新?主遷居鹿児島先生毎過?城門脱帽致敬至老来當怠?主家道中落大故相踵遺孤守時君年僅六歳煢〃無?依先生慨然謂衆曰我輩受恩深厚豈可傍観衆皆??迎守時君於暮邑?育教養傳以成立又与衆協力治其資産括据多年家計稍裕三十三年守時君列華族授男爵南島名家於是復興者實先生之力也曰執義衛道明治初本藩置各邑常備兵先生為砲隊長以何罷去七年?郷校教授尋為監事先生及以教育自任譲支校開夜学以忠孝節義??子弟教学大振十年私学校乱起郷校師生亦多焉先生整?大義唱説正論?人忌之成告将来?先生不為動毅然諸経自乱越後薩隅日三州之学皆廃而??之?終始不絶者獨有我郷校而己曰興学育英既而郷校改為小学先生以謂子?進修不可無中学十一年請官創立?中学後?公立種子島学校先生視校長事三十年廃先生及改為私立勤郡中三村補助資金?俸督校務辛?経営七八年而亦廃時先生既老而失明?以世道人心為念?弘道会?従?学其専精教育数十年如一日?然為一郷師?前後受業者不可勝?随材成就的文武立身者四方士人遊我郷者必造門請益肥前老儒摘本碩水聞其名寄書計交其為世所重如此是以縣官?加賞賜大日本教育会亦贈銀章至三十六年朝廷賜藍綬褒章郷人皆栄之先生為人温厚篤實孝友出于天性居考妣来哀?動人有一女兄終身不嫁事之如母接人謙和善〃如巳有之而悪〃不假然不甚??色淡于英栄利?友多官于朝人成勤仕?曰居郷甚楽平生不事著述顧及好詞歌無善書毎遇良辰興子弟出遊詠?失明後配河内氏?獨居山??然度日絶無憂悶態諸如此類亦皆可傳者也大正二年八月彦帰郷省謁臨別先生託以女孫又見示詞歌各一首詩言永謹?倫之志其歌則曽子啓手足之意如不見容焉者越九月二日?逝享年八十三葬?豊之山?次無子養従姪幸磨為?銘曰海鳥之中有斐居子師道維?故以修己明倫自任学尚践履徳行?〃儀形郷里友先生而在人人知?誰適興謀令也?矣貞琅不磨銘不溢美世路多?視斯芳軌
        大正十二年十一月
  宮内省御用掛正五位文学博士受業門人 西村時彦撰
  陸軍中将従三位勲二等功三級受業門人 河内禮蔵書

碑文は以上です。文章の中で、・・・、?は読めない字、或いは変換不能の字です。また、刻まれている文字を誤って読み違えていることもあると思います。ご了承ください。

ほうざん広場

榕城小学校の校庭にあるほうざん広場に紀徳碑があります。

豊山先生に関する案内板

広場前にある豊山先生に関する案内板です。一貫して離島の教育振興に貢献したとあります。

豊山先生の居地の碑

紀徳碑の横にある豊山先生の居地の碑です。

2014.3.2〜