明治十年二月十五日に、当時陸軍大将だった西郷隆盛が起こした政府に対する反乱です。約七ヶ月間に及ぶ戦争で、次第に鹿児島まで追い込まれていきます。そして、西郷隆盛は同年九月二十四日に、鹿児島城山で五十一歳で自刃し、戦争も終結していきます。官軍が勝利し、明治維新が幕を閉じ、近代国家の第一歩が始まっていきます。こちら種子島からもたくさんの人々が戦役についています。種子島の各地に西南の役の招魂碑が建設されています。その碑に刻まれている碑文を紹介しています。なお、碑文で、?は判読できない文字、或は変換不可能な文字で、一部現代文字に変換しています。また、碑文に読み違いがあるかもしれません。
1.国上招魂神社の碑 | 2.風本神社の碑 |
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【撮影場所】西之表市国上招魂神社境内 【撮影日】2007年9月15日 【アクセス時間】西之表市街地より約15分 【説明】招魂神社には、三つの碑が建設しています。西南の役に関する碑は、左の碑で碑文は次のように刻まれています。 招魂 明治十年二月十六日 於テ肥後国高瀬戦死 河内五左ヱ門 同年四月五日 於テ同国植木戦死 河内嘉之市 同年八月二十三日 於テ薩摩国吉野戦死 河内三十 河野良助 落合十郎 芝勝之 |
【撮影場所】西之表市現和風本神社入口付近 【撮影日】2007年9月17日 【アクセス時間】西之表市街地より約15分 【説明】神社境内入口にに、三つ碑が並んで建設しています。西南の役に関する碑は、左の碑で次の碑文が刻まれています。 陣亡招魂之碑 明治十年一月八日於鏡村死四十四歳 西村民之助 同年四月十六日於種木村死二十八歳 榎本甚蔵 同年二月十三日於田原村死二十一歳 鮫島才太 同年二月六日於植木村死二十七歳 日高徳蔵 同年七月二日於佐土原死三十三歳 榎本九助 同年二月七日於田原村死二十八歳 鮫島兵蔵 |
3.住吉本成寺の碑 | 4.玉川招魂碑 |
【撮影場所】西之表市住吉浜之町本成寺境内 【撮影日】2007年9月17日 【アクセス時間】西之表市街地から約13分 【説明】境内の西側に、二つの碑が建設されています。まず、右の碑文は次のように刻まれています。 西南之役典西郷氏之招 慕?戦血闘遂於熊本鹿 児島之?々乎員帰島者 上妻伊角 上妻真代 鮫島矢太郎 上妻悌一 平山半吾 鮫島甚助 左の碑文は次のように刻まれています。 招魂 明治十年丁五三月十五 日於肥後国田原坂戦死 長野嘉左ヱ門年三十三 同於熊本鹿児島之諸縣 本島士挨戦亡者百四名 建立者 九十四名 |
【撮影場所】西之表市東町公民館隣 【撮影日】2007年9月29日 【アクセス時間】*** 【説明】東町公民館隣にある招魂碑です。碑は五つあり、新しく建てられた碑です。碑文は次のように刻まれています。 玉川招魂碑 明治十年西南の役 平成十二年二月吉日 東町町内会 碑の説明 全島の戦死者108名 西之表地区〜97名 中・南種子地区〜11名 碑の前に戦死者の場所と名前が刻まれています。 なお、碑の奥の右に見えている碑は「招魂」碑で、明治十二年に建立されています。その碑には、戦死者の場所と名前が刻まれています。 中央の新しい碑は、奥の碑のデータを元に建てています。 玉川招魂碑の案内板も設置されています。 |
5.野間神社の招魂碑 | 6.茎永の招魂碑 |
【撮影場所】中種子町野間神社 【撮影日】2016年7月24日 【アクセス時間】中種子市街地から約2分 【説明】野間神社拝殿の左側にある招魂碑です。招魂碑には、次のような碑文が刻まれています。 招魂 明治十年七月廿三日於日向国 高原戦死年三十四 石堂半左ヱ門 同年三月廿一日於肥後国植木 被創九月九日還家死年二十五 石堂正之助同年三月十五日於同国田原戦 死年三十四 鎌田藤蔵 同日於同?戦死年二十 石堂吉哉 同年四月十五日於同国矢部戦 死年三十二 鎌田精三 同年六月九日於薩摩国吉田戦 死年二十三 美座周助 |
【撮影場所】南種子町茎永松原 【撮影日】2007年9月14日 【アクセス時間】南種子市街地から約13分 【説明】たねがしま赤米館の裏側にある招魂碑です。写真中央の碑に刻まれている碑文は、入口にある四角の礎に新しく刻まれています。碑文は次のように刻まれています。 丁丑役 明治十年(一八七七年)西郷隆盛随行 西郷隆盛軍 貴島 清一番隊 二分隊 私学校 種子島分校 茎永支校選抜志士 三月十五日 於肥後の国田原坂戦死 押伍 古市直太郎 押伍 日高徳一 兵士 石堂喜之助 兵士 古市又一 三月二十四日 於肥後の国植木戦死 押伍 日高勇八郎 兵士 上妻勇作 兵士 日高吾妻 四月十四日 於肥後の国白旗山戦死 一名 兵士 鮫島惣十 ※この招魂碑については、「ふるさと散策」で、「種子島宇宙センター〜門倉岬」で詳しく掲載しています。そちらをご覧ください。 |
7.安城諏訪神社の碑 | |
【撮影場所】西之表市安城諏訪神社 【撮影日】2013年4月14日 【アクセス時間】西之表市街地から約25分 【説明】安城諏訪神社にある陣亡招魂之碑です。碑文は、次のように刻まれています。 明治十年丁丑三月 二十一日於肥後国川尻駅死鮫島新吾年二十五 同年三月三十日於同駅死上妻三之助年二十一 陣亡招魂之碑 同年四月一日同国植木村死上妻宇助年三十一 同年四月二日於同国木山村死武田嘉七年三十 西南役出軍者十一名 鮫島喜十次年二十二 田上七之助二十六 小川精七十九 鮫島時助年十九 上妻四郎助十八 遠藤伊左エ門三十七 榎元仲兵エ三十七 石工京 |
西南の役(西南戦争)は、丁丑の乱・十年戦争・私学校戦争などとも呼ばれ、明治初期における一連の士族反乱の内、最大規模で、日本最後の内戦となった戦いです。
上記の碑文から、戦った地域は、広範囲に及んでいます。その中で、最も有名な戦いは、田原坂の戦いです。「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」との句もあります。西南の役で、中心的存在だった西郷さんに関係ある場所を集めてみました。
1.南州墓地公園から桜島を見る | 2.城山 |
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【撮影場所】鹿児島市南州墓地公園 【撮影日】2009年10月12日 【アクセス時間】鹿児島市街地より約15分 【説明】南州墓地公園から眺めた桜島です。雲一つない天気でしたが、やや霞がかかっていました。桜島が噴煙を上げているのがわかると思います。 |
【撮影場所】鹿児島市城山展望所 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約10分 【説明】城山は、「史跡及び天然記念物」として、昭和6年6月3日に国の文化財に指定されています。展望所から照国神社付近までは自然遊歩道になっています。また、展望所は、観光客が大勢訪れています。写真右から展望します。 |
3.石仏十三体 | 4.西南戦争始末記 |
【撮影場所】鹿児島市城山 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約8分 【説明】明治10年9月24日7時、西郷隆盛51歳が介錯されて、血がダラダラ流れる首を官軍に奪われるといけないと、薩兵の1人が泣いて脇に抱えながら走り出した。その異様な姿を途中の畑より糸子婦人が悲愴な姿で眺めていたという。薩兵は石仏十三体前まで走り、大木の前を剣で掘り首を埋めたと案内板に書かれています。 |
【撮影場所】鹿児島市城山 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約7分 【説明】洞窟の中に、西南の役の始末記が展示されています。 |
5.西郷隆盛洞窟 | 6.西郷隆盛終焉の地 |
【撮影場所】鹿児島市城山 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約7分 【説明】西南戦争の最後の司令部となった洞窟です。明治10年9月24日4時、政府軍の総攻撃が行われ、そのあとこの洞窟を出た西郷隆盛の腰に流弾が命中します。私学校の幹部4人も一緒にいた洞窟です。 |
【撮影場所】鹿児島市城山岩崎谷 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約7分 【説明】城山の洞窟を出て、まもなく2発の銃弾が西郷隆盛の腰と大腿部を貫通します。洞窟から約300メートル。「晋どん、もうここらでよか」、東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされた地です。7ヶ月に亘った西南戦争も終わったのです。 |
7.私学校跡 | 8.西南の役弾痕 |
【撮影場所】鹿児島市城山町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】*** 【説明】国道10号線沿いにあります。現在は、石積、塀などが残っています。 |
【撮影場所】鹿児島市城山町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】*** 【説明】塀には、多数の銃弾痕が残っています。写真でもその様子が分かります。 |
9.鶴丸城跡 | 10.西郷隆盛銅像 |
【撮影場所】鹿児島市城山町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】*** 【説明】国道10号線沿いにあります。現在は、石積、塀などが残っています。 |
【撮影場所】鹿児島市城山町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】*** 【説明】国道10号線沿いにある西郷隆盛の銅像です。ボランティアによって、1年に1回清掃も行われています。観光客による撮影も多いです。 |
11.月照上人の遺跡の碑 | 12.西郷隆盛誕生之地 |
【撮影場所】鹿児島市金生町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】*** 【説明】鹿児島銀行本店裏にある月照上人の碑です。この地は、京都清水寺の僧月照が宿泊した旅館「俵屋」があった場所です。幕府の追及を逃れ、西郷を頼りに鹿児島に来たのが安政5年(1858年)11月8日のこと。密告され、二人は16日未明、錦江湾に相抱いて身を投じるまで、ここで過ごしたといいます。 |
【撮影場所】鹿児島市加治屋町 【撮影日】2009年10月4日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約7分 【説明】加治屋町甲突川沿いにある西郷隆盛の誕生地です。付近には、大久保利通の誕生地もあります。維新ふるさと館の近くです。 |
13.西郷・大久保座禅石 | 14.西郷隆盛の墓 |
【撮影場所】鹿児島市草牟田2丁目 【撮影日】2009年10月10日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約15分 【説明】揺れ動く藩政の中で、座禅によって自分を見つめなおすことは、大きな時代の流れを見極める助けになったのでしょう。その熱い志を育んだ座禅石です。ご覧のように座禅石公園になっています。 |
【撮影場所】鹿児島市下竜尾町 【撮影日】2009年10月12日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約15分 【説明】南州墓地の中央に西郷隆盛の墓があります。南州墓地には、西南戦争で敗れた薩軍2023名の兵士が眠っています。明治10年岩崎谷で、戦死した西郷隆盛以下40名を仮埋葬したこの地が墓地の始まりです。左に桐野利秋、右に篠原国幹ら幹部が並んでいます。 ところで、最年少兵士は、明治10年3月30日肥後松橋において14歳6ヶ月で戦死しています。 |
15.南州神社 | 16.西郷隆盛御座石 |
【撮影場所】鹿児島市下竜尾町 【撮影日】2009年10月12日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約15分 【説明】南州墓地の右にある西郷隆盛を祭った神社です。明治12年に参拝所となっていましたが、大正11年に南州神社となっています。 |
【撮影場所】日置市坊野地区 【撮影日】2010年1月29日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約1時間 【説明】西郷隆盛は、明治7年(1874年頃)たびたび坊野を訪れ、猪狩りや散策を楽しんでいる。「西郷殿屋敷」を建て、「手洗い鉢」をつくり今も残っている。 |
17.西郷殿屋敷 | 18.西郷どんとツン |
【撮影場所】日置市坊野地区 【撮影日】2010年1月29日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約1時間 【説明】南州翁は、明治6年秋官職を辞めて故郷に帰り、たびたび南薩や大隅の山野に狩りをされ、坊野の仁太郎宅にもよく立ち寄られた。仁太郎の妻よしはかつて西郷家に仕えた縁でかわいがられていた。道化は山の北側で日当たりの悪い茅屋根であったので、翁は、日当たりのよい土地を買い求めて宅地を開き建築費を添えて贈られた。屋敷内には、翁手造りと伝えられる手洗い鉢と黒川愛吉氏建立の「西郷隆盛開地の碑」がある。 |
【撮影場所】薩摩川内市東郷町藤川 【撮影日】2011年3月9日 【アクセス時間】鹿児島市街地から約1時間30分 【説明】明治7・8年頃藤川天神に参詣の西郷どんは藤川牧野の前田善兵衛が飼っていた名猟犬ツンを見て懇望した。ツンは虎毛の左尾の牡犬で兎狩りの逸物であった。三原隼太なる人を経て贈られた。西郷どんは喜び自分の乗馬を三原に与え、前田には、金二十貫を与えた。 |
※ 種子島の各地に西南の役の招魂碑が建設されています。その碑に刻まれている碑文を紹介しています。この動画の中には、西之表市国上招魂神社、現和風本神社、安城諏訪神社、住吉本成寺の招魂碑、中種子町野間神社、南種子町向方神社、茎永招魂神社の招魂碑などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。