種子島開発総合センターでは、平成23年9月からわかりやすい考古学講座「掘ったぞ 種子島」と題して、月に1回開設しています。
これは、考古学や種子島の歴史に興味と関心を持っていただくための事業で、全6回の講座を開催しています。その内容は、種子島の各地で、発掘調査を行った遺跡を紹介するものです。発掘調査したものを直接見たり、スライド等で解説し、わかりやすく遺跡の説明を行っています。
平成23年11月5日(土)、2階会議室において、南種子町教育委員会学芸員石堂和博講師を迎えて、「第3回発掘廣田遺跡」の講座が行われました。
ところで、広田遺跡は、1998年3月28日に種子島で唯一、国の史跡に指定されています。新聞やテレビでも掲載・放映されました。すでに詳しく知っている方もおられると思いますが、ここで、広田遺跡について簡単に説明しましょう。「広田遺跡は、今からおよそ1700年前の埋葬遺跡です。時は、1955年の台風22号の際に、南種子町平山広田地区に住む斉藤貞夫、長田茂、坂口喜成氏により、広田海岸で発見され、1957〜1959年まで盛園尚孝、国分直一氏によって学術調査が行なわれ、4万点以上の貝製の装飾具、157体をこす人骨が見つかり、全国から注目を浴びるようになったのです。「山」の字の貝符は、1958年(昭和33年)の第二次調査で見つかり、日本最古の文字の発見として新聞でも大きく取り上げられています。
そして、平成16年〜18年にかけて南種子町教育委員会による発掘調査を行い、現在に至っています。
その後、平成20年3月28日に国史跡「広田遺跡」、平成21年7月10日に国重要文化財「広田遺跡出土品」の二つの国指定を受けています。
広田埋葬遺跡は、平成20年3月28日に国史跡「広田遺跡」、平成21年7月10日に国重要文化財「広田遺跡出土品」の二つの国指定を受けています。
記録に残っていない種子島の文化のスライドです。日本の文化は、北の文化(アイヌ)、中の文化(日本本土)、南の文化(琉球)に大別できます。種子島は、ちょうど、中の文化と南の文化の境界に位置し、二つの文化が行きかいし、融合することで、独自の文化が生まれたとのこと。
「考古学は地域に勇気を与える学問」」(同志社大学名誉教授森浩一先生の言葉)のスライドです。国史跡指定記念として、平成20年9月21日(日)南種子町福祉センターにおいて「広田遺跡の謎に迫る」と題して広田遺跡シンポジュームの写真などが紹介されています。
種子島の文化・土器について、石堂講師が説明しているところです。スライドの内容は、南九州から輸入されているので広田人は、海を渡って、種子島外の人々とも交流があったとされていたとか、そして、種子島の土器は、南九州の土器とは違った形と模様をしており、南九州よりも模様を多用していたことなどです。
参加者が、その人骨のレプリカを見たり触ったりしているところです。
人骨と下あごです。広田遺跡から発掘された、157体の人骨から分かったことは、成人男性の身長は平均で154.0センチ、女性で142.8センチで、低身長であることや上顎片側の側切歯を抜歯する特異な風習があったことなどです。
上空から写した広田海岸のスライドです。広田遺跡は、写真中央左斜め下くらいの海岸線に位置しています。
ゴホウラ製貝輪の出土品です。これは、手の腕に付けていた貝の装飾品です。そのスライドが写真です。
講座では、わかりやすく遺跡のことを伝えるために、重要文化財の指定を受けていない貝製品(ゴホウラ貝輪)やレプリカの人骨を持ってきていました。石堂講師の分かりやすいお話に参加者熱心に聞き入り、また、熱心に質問などしていました。
ところで、講座は無料で、市内に在住、または通勤、通学している方ならだれでも参加できます。なお、定員は30名程度で、先着順となっています。
詳しいことは、種子島開発総合センター(鉄砲館)(0997-23-3215)にお問い合わせてください。