賢母の遺蹟のあらまし

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古田御前のあらましに関する碑

賢母の遺蹟のあらまし
【撮影場所】
鹿児島県西之表市古田小学校
【撮影日時】
2008年8月10日/12時22分

 西之表市立古田小学校の校庭にある記念碑です。古田御前に関連した記念碑が左にありますが、その記念碑に刻まれている文章を分かりやすく解説したものが、「賢母の遺蹟のあらまし」なのです。その記念碑には、次のような碑文が刻まれています。

 賢母の遺蹟のあらまし

 わが種子島氏は 代々 りっぱな殿様がいましたが その中でたびたび戦いに出て武勇を外国にまであげたのは 十六代 久時公である 公の武勇は天性にもよるが また その母がえらかったのである
  言い伝えによれば 久時公の父 時尭公が ある日 国上村にりょうに行き ひどくのどがかわいたので とある人家に入って飲み物を求めた すると 一人の女がいて 茶わんをなべのふたにのせてすすめた 初めはなまぬるく その次は少し熱く 三ばいめは もっと熱くして出したので 公はめずらしくかしこい女だと思った この人が のちに時尭公の側室となって 久時公を産んだのであり 古田御前とも 古田夫人とも言われている
  久時公は早く父に死なれたので 母の手で育てられた そのころは 戦国の世の中で 日本中が戦争にあけくれていた 夫人が思うには世の中がこのようにみだれているから 久時公も やがては戦争に行かねばなるまい もし 奥深い御殿で婦人の手によって育てられ弱い人になってしまったら戦いに敗れてはじを残すにちがいないと そこで古田の地を選んで屋敷を築き移り住んだ(注 屋敷跡は 古田小学校の宿直室付近であるという)
  もともと わが種子島は あたたかくて人には寒さを知らないが ただ古田村だけは非常に寒い 夫人は朝は早く起き夜はおそくねて 子を教育するのがきびしかった 庭に木を立てて 毎朝はだしでやりのけいこをさせた どんな寒い朝でも決して休まなかった 久時公も母のきびしい教えをよく守り苦しみをたえぬいた 成長するにおよんで 英姿さっそうとして 武勇人にすぐれ あたかも昔の名将のようであった
  十六歳のとき りょうに出ていのししをうちとり また年若いうちから 九州の各地に転戦して勇名をとどろかした 文禄征韓の役には 兵を率いて四度も 朝鮮にわたった 朝鮮は非常に寒いので 将兵が皆 凍傷にかかり 中には指が落ちたり 皮ふがさけたりする者も多く出た しかし 久時公だけは 何ともなかった 最もはげしかったのは 南海の戦いであった 公は数ヶ所の傷を受けても ひるまず 敵の矢が雨あられと飛んでくる中に立って士卒をさしずし 鉄砲の集中しゃげきを敵艦にあびせこれに乗り移って一隻をぶんどったのである
  久時のめざましい手がらは天性にもよるが 父 時尭公が残したはかりごと 母の教えによることが大きいのである 夫人が古田に移り住んで その子を教育したのは 孟子の母にならったものであろう 夫人は 天正十七年八月五日 四十歳をもって 古田でなくなった
追記 賢母の遺蹟は 西村天囚博士の文であるが 漢文であるため 今では読みにくいものになっている そのため 古田御前の事跡を知る人が少なくなっているのを憂えた中野ヒガさんは 小中学生をはじめ 世の中に知ってほしいと願った そこでこのあらましの文を元古田小学校長 西田哲一氏に依頼され 昭和五十四年寄付建立された さらに後世に伝えるため 創立百周年記念事業の一貫として再建立した
          昭和六十二年四月吉日
               西之表市立古田小学校長 西川海 謹書

 碑文は以上です。なお、読み違いがあるかもしれません。