種子島開発総合センター(鉄砲館)で、鉄砲館特別展「戦後70年展」が平成27年8月1日(土)〜8月31日(月)まで行なわれました。
今年は、第二次世界大戦終戦後70年を迎えています。鉄砲館では、戦争に関する資料や写真などを広く一般市民からも募集し展示してきました。
平成27年8月29日(土)、「戦後70年展」の特別展示の一部を撮影させていただきました。特別展示は、入場料は無料となっていたものです。
戦後70年展を写真と動画で紹介しています。
なお、戦後70年展の詳しいことは、種子島開発総合センター(鉄砲館)(0997-23-3215)へお問い合わせてください。
種子島を襲ったグラマンと同じアメリカ製戦闘機テキサンT-6Gのプロペラです。
安城校疎開団の「思い出の記」です。安城小学校児童の学童疎開についての記録です。疎開先の菱刈での出来事や種子島に帰島する際船の漂流遭難及び捜索したことなどが記録されています。
学童疎開の歌です。安城小学校児童の学童疎開について歌詞にしたものです。昭和20年4月中旬、種子島にグラマンが攻めてきて学童疎開の命が下されたことが一番の歌詞になっています。
戦争にちなんだ絵が描かれた茶碗です。
戦前の世相を反映した冊子です。手前より、「連盟を脱退したら日本はどうなる?」、「戦争はいつか」、「非常時局と国防問題」、「武人時局を語る」、「軍の推進力」、「軍部を裏から覗く」、「青年宰相近衛文麿公を語る」、「最近の国際情勢と日本の立場」です。
疎開当時、安城小学校3年生だった岩坪さんの疎開体験記です。菱刈に疎開し、終戦後種子島に帰る途中船が遭難し、枕崎の白沢まで漂流しますが、地元の船で救助され一命を取り留めます。多くの人に命を助けてもらい感謝し続けています。
疎開中での食事サンプルです。
戦時中の国民服です。
薬莢です。なお、イメージとして狩猟用のものです。
住吉小学校4年と2年の集団疎開をした上妻さんと羽島さんの体験記です。昭和20年4月29日、住吉小から菱刈まで、小舟、貨物船、貨物記者にて移動、約6か月間疎開生活を送っています。
学童疎開受入地の菱刈本城国民学校の教師として、住吉の2年生を担当されていた下野先生が、平成19年に住吉小学校でお話しされた内容です。当時先生は18歳だったそうです。
手紙は、疎開先となった大口町中戸切部落へ西町部落が出したお礼状です。
橘丸です。国上小や安納小などが疎開先から帰島するときに乗船した船です。
植物学者として安納芋の調査研究をされている元西之表市長落合さんは、国上小学校5年の時に疎開しています。疎開先である曾木国民学校の教師であった永山先生の「もう一度、鹿児島に出てこい」という言葉で、人生が変わったとお話しされています。
山下さんは、西之表の城で、敵機の空襲を受け、逃げ遅れた私を眼鏡をかけた飛行士の顔が見えるほど至近距離から狙い撃ちにされたと話されています。
武田さんと平石さんは、立山は、当時作られた増田飛行場から近いことで、飛行場爆撃による爆風の被害が多かったと話されています。母は、家族を守るため必死で生きていたと。
写真は、増田戦跡配置図です。滑走路は全長1400メートル、幅300メートルでした。かなり広範囲にその戦跡があります。現在、戸畑の煙突は文化財に指定されています。
防護用ヘルメットです。
防空頭巾です。
沖ヶ浜田の沖田さんは、増田の飛行場で働いていたそうです。西之表市からも多くの学生が駆り出されています。終戦が近付くと敵機が投降ビラをまくようになったとか。
塰泊部落には、日本軍の無線塔があり敵機が爆撃し、また、市街地へも爆撃したりして、海岸には、多くの遺体が漂着していたとか。向田さんは、戦後はみんなで助け合い、優しさを分かち合って生きてきたと話されています。
射場さんの体験記です。父は昭和13年3月、古田から熊本六師団に入隊しシナに出兵しています。出兵して2通の直筆の手紙が届き、その後10月14日に戦死したと。2通の手紙は宝物だと話されています。
長野さんは、20歳で軍に配属され、終戦に。その後、異国の地で捕虜としての日々が続いたと。いわゆるシベリア抑留です。収容所の中では、毎晩共産主義講義があったそうです。そして、昭和23年9月20日、日本に帰ることができたと話されています。
鮫島貢さんは、西之表の立山で生まれ種子島中学校卒業後明野陸軍士官飛行学校卒業。昭和19年3月21日、東部ニューギニアカイリル島で戦死。享年23歳。
陸軍士官学校の卒業アルバムに書かれた寄せ書き。卒業アルバム、双眼鏡などもあります。
士官学校時代の教科書、ノート、演習の用紙などです。
遺言です。天皇陛下萬歳に始まり、ご両親様、弟妹へで結ばれています。
隠顕燈です。陸軍軍用品で夜間照明、通信連絡に用いたとされる。
九二式電話機です。陸軍が1932年に制定した野戦用電話機です。終戦まで、陸軍の主力電話機であった。
軍服上着と外套です。
戦争関連史跡です。喜志鹿崎灯台の砲台跡、旧榕城中横防空壕跡、夕暉が丘大和夕暉が丘平和の塔、わかさ公園戦没者慰霊塔、住吉防空壕跡、天女ヶ倉防空壕跡、古田慰霊碑、安城防空壕跡、古田誠の碑、立山防空壕跡、中種子町増田九州海軍航空隊種子島基地之碑、中種子町増田烹水所跡・煙突などです。
※ 2015年8月29日、西之表市種子島開発総合センター(鉄砲館)において、「戦後70年展」を撮影し紹介しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。