移住記念に関する碑
西之表市伊関校区の柳原集会施設の裏にこの記念碑があります。左が移住百周年記念之碑、右が移住記念碑です。まず、移住百周年記念之碑の碑文は、次のとおりです。
移住百周年記念之碑
昭和六十一年四月十五日
住民一同建之
碑文
明治十六年より三か年に亘り甑島に襲来せる台風の言語に絶する惨状を機に出郷せし十九戸が明治十九年四月十五日この地に移住しさらに後の移住者と共に幾多の困難を克服して荒蕪地の開拓に挑み生活基盤確立に粉骨砕身の努力を重ね漸次安定の途を辿り遂に今日の極楽郷柳原が形成されるに至る此等幾多の艱難辛苦に耐えひたすら愛郷の志に燃え今日を招来せし先祖に対し深く敬意と感謝の念を表す我等この地に生育せる地域住民は移住百年を興気躍進の契機として愈々団結協力融和の決意を新たにし郷土の大いなる発展を誓うと共に未来永劫隆盛無窮たらんことを祈念す 住時を追憶し誠に感慨無量なるを覚えここにその真情を偲び総力を結集して移住百年の記念碑を建立し千載に伝えるものなり
昭和六十一年四月吉日
柳原地区住民一同
元伊関小学校校長
日高三善撰之
移住百周年記念事業実行委員
委員長 南 重徳 柳川満志
副委員長 永田 章 中野時雄
会計 中川秀男 下江光男
事務局 冨田敏隆 中野一子
監事 中野時雄 下江キクエ
監事 柳川満志 出版部
顧問 中野春志 部長 前野良一
永田義彦 曾木 貢
南七之助 中野盛雄
基金調達部 中野新一
部長 中野義弘 中野邦見
梅元 哲 中野清徳
下江一郎 柳川孝幸
広庭 孝 田畑正清
川端保都 中野久巳
中野義信 向 敏弘
田畑清信 吉田智明
中川 繁 中野るい子
中野 忠 中川洋子
事業部 川端けい子
部長 向 豊 下江ゆきよ
次に、右の移住記念碑の碑文は次のように刻まれています。
移住記念碑
明治十六年ヨリ参箇年ニ亘リ襲来セル風台風ハ近世稀ニシテ其範囲頗ル廣ク甑島其ノ災害ヲ豪ルコト最モ大ナリ田畑ノ流失家屋ノ倒壊相次ギ衣食ノ窮乏ニ加フルニ心疫流行シ其ノ惨状言語ニ絶ス於茲當時ノ鹿児島縣知事渡邊千秋氏ニ懇願シ仝拾九年四月住民相連レテ種子島ニ移住スルコトナレリ當時熊毛郡事務所長牧野篤好氏甑島戸長橋口武志氏北種子戸長上妻謙三氏伊関世話係池亀新六氏ノ盡力ニ依リ此ノ地ニ居ヲ構フルニ至レルモノ戸数拾九ナリ?来五十弐年幾多ノ困苦ト戦ヒツツ荒蕪ヲ開拓シテ遂ニ今日ノ極楽郷柳原部落四十八戸ヲ形成スルニ至ル往時ヲ追憶シテ感慨更ニ新ナルモノアリ己ニ部落民ノ中ニハ本年三月祖先ノ地甑島ヲ訪問シテ慰霊祭ヲ行フアリ今又?リテ移住記念碑ヲ建設シ之ヲ録シテ後世ニ傳ヘントス 昭和十二年九月
熊毛支庁長 江口義照書
裏面には、移住社名などを刻しています。
明治十九年移住 永田十吉 後 廣庭猪之助 持元平蔵 田畑清衛門 柳川?助
向 半助 田畑庄之助 年 福元市助 前野政義 中野太四郎 福元仙市
中野平太郎 中野傅次郎 移 前野嘉三太 前野嘉市 柳川?八 田畑庄之進
南 吉助 中野甚助 住 出口幸之進 向喜之助 曾木甚三 田畑喜義
西 傳平 中野當太郎 建設者 西手六助 榎 重義 中野九庄衛門
西 源平 田畑清太郎 町頭南吉哉 下江安喜 西 源吉 柳川義則
下江市太郎 曾木ヤエ 工事係廣庭種義 中野 忠 西源之丞 柳川長三
地蔵吉太郎 町頭 担任養員有田愛之助 小倉 保 丸田清彦 中川友市
中野太平 南 吉助 委 中野七郎 中野武夫 田畑庄太郎 中川 勇
中川太三次 柳川?七 六 中野傳助 地蔵政市 南仁之助 永田十太
柳川?七 移住指導者 南七兵衛 出口幸市 加世田三太郎 田畑庄吉
中野休四郎 向 半助 中野太郎 中野平八 中野金助 楢原良助
中野勝次郎 西 松彦 中野太次郎 中野傳市 曾木仙三
中野十之助 廣庭敬之助 吉田トヨ
校長柳田友愛書
碑文は以上です。文章の中で、?は判読できない文字、或は変換不可能な文字です。また、碑文の読み違いがあるかもしれません。
※ 西之表市伊関柳原公民館に建立されている移住紀念に関する記念碑「移住百周年記念之碑・移住記念碑」を紹介しています。この動画の中には、県道591号線柳原公民館入口前通り、公民館広場、移住百周年記念之碑、移住記念碑の碑文及びその周辺の風景を収録しています。なお、碑文は字幕で本文を流しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。