浜田藤太郎氏に関する碑
南種子町門倉岬の近くに七色観望台があります。明治37年1月西之本村で生れた浜田藤太郎氏は、昭和38年4月から3期12年南種子町長として要職についていましたが、晩年は、この地で過ごし亡くなった後、この地を南種子町に寄贈しています。そして、この地は七色観望台と命名され、前之浜海岸をはじめパノラマ展望ができる場所になっています。観望台にはたくさんの記念碑がありますが、その中で写真の記念碑は、観望台入口付近にある記念碑です。周辺には三つの記念碑があります。その記念碑には次のような碑文が刻まれています。
郷土の鏡三師行跡之碑
昭和五十九年(一九八五)十二月
浜田藤太郎
書 岩坪安昌
彫刻 寺田石材工業
?山小田誠一
徳永健吉先生
先生は明治十七年西之下西目に生れる小学校を卆え教員養成所に学び小学校に奉職なさる極めて、真面目な性格の方であった。大正五年郷里の西野小学校に赴任し、六年生担当の頃である。西之本村の前ノ浜海岸が四百年前に南蛮船漂着し初めて日本に鉄砲を伝えた由緒あることに深く思いを致した。然るに今は、千古の浪路に海鳴の声しか残らぬ現状に心を砕き当時の西之青年会と、西之区民に、この誇り高い前ノ浜海岸の歴史を後世に伝えようと理解と協力を求められたかくして鉄砲伝来の碑の建立を決定着工の段取りをなさった。当時は機械力もなく大石の碑柱の運搬は区民総出で苦労したのであったが、先生が大も心を痛められた問題は、碑文の選定のことであった。この歴史にもっとも造詣深い西之表の西村天囚先生にお願いしたのであったが、種々困難な問題も起き幾度か先生は西之表に出向し誠意をつくして漸々碑の実現を見たのであります。先生は、多忙の勤務時間を全うし乍ら、休日や放課後の時間をよく活用し文字通り渾身の働きにより現在の鉄砲伝来の紀功碑は、実現したのであります。当時六年生であった自分は先生の日常活動が今も生々しく瞼に浮びます。そして先生の郷土歴史の確保に流された愛情の尊さに、頭を下げる私です。
昭和五十九年(一九八四年)十二月吉日
浜田藤太郎
彫刻寺田石材工業
岩坪安昌書
砂坂孫左ヱ門を
高瀬原にしのぶ
砂坂孫左ヱ門は、天保元年西之砂坂に生れる。長じて内剛外柔の豊かな心の人であった彼の青年時代の頃までは砂坂とその隣部落、立石の間には、断崖海にせまって道もなく海岸の石伝いに通行する状態であった。孫左ヱ門は、ここに道をつくろうと、部落の人々に協議してみたが賛成者は一人も居なかった。彼は意を決して単身実現すべく立ち上った。巨大な高瀬原の岩山と打ち寄せる荒波のあい間に一筋の道の完成を夢見て、逞しい彼の努力はつづけられた、独力で完成までの三ヵ年熱望の道は出来上った。人馬の通行が可能となり、世変りの感を人々に与えた。一身を犠牲にして、この道の難を克服した孫左ヱ門の心には、きっと、神の声援を信じ励まされたことだろう。心は、神の通路である。
昭和五十九年(一九八四年)十二月吉日
浜田藤太郎
書 岩坪安昌
彫刻寺田石材工業
出郷者名越覚十郎の
郷土への絆
向学の志押え難く郷里下西目部落を飛び出された名越覚十郎先生は青年時代を独学力行、人間の可能性に挑戦し乍ら研鑚を積まれた。後半現住所町田市の玉川学園に奉職なさったその後町田市の市議会議員となり東京都のベッドタウンとしての町田市の躍進はめまぐるしく、強力な政治力は常に市会に要求された。この多難な、公務に貢献なさる先生の日常は多忙を極め乍らも、生れ故郷の地を忘れずことは出来ず、少年時代の知人友人を通し繁く文通し日進月歩の社会に落伍せない様にと多数の書籍等を西野小学校に寄贈なさって、郷土の青少年の啓蒙と激励のかたはら文書は連綿とつづけられた。先生齢九十にして、心身共に壮者を凌ぐ健康さと共に今もつづけられる生れ故郷への愛情の文通は、感激の至りであり。昭和五十九年勲六等に叙せられる郷土の誇りとして慶びにたえない。
昭和五十九年(一九八四年)十二月吉日
浜田藤太郎
彫刻寺田石材工業
岩坪安昌書
碑文は以上です。?は判読できない文字です。