種子島開発総合センター(鉄砲館)で、9月10日(月)〜11月30日(金)までの期間特別展示「明治に躍動した種子島の女性たち展」が開催されてきました。
特別展では、種子島の女殿様「松寿院」、西村天囚を育てた「平山優子」、種子島歌壇に新風をもたらした「山田歌子」、歌で村の苦境を救った「増田周袈裟女」、乳呑児を救った「牛野豊女」、優しさと強さを持ち合わせた「武田つる」、日本の幼児教育の草分け「古市静子」、親孝行娘の「大木ウメ」、島のために尽くした「馬場愛子」など9名の女性について展示していました。
その女性たち展を撮影させていただきました。
なお、種子島の女性たち展の詳しいことは、種子島開発総合センター(鉄砲館)(0997-23-3215)へお問い合わせてください。
こちらが、特別展の展示コーナーです。この日が最終展示日となりました。
写真は、種子島の女殿様だった「松寿院」を描いた掛け軸です。熊野神社所有のものです。松寿院は、1797〜1865年まで68歳の生涯を終えるまで、ひたすら島民のために尽くした人物です。
松寿院から妹苗姫宛ての手紙です。陸奥棚倉藩主阿部飛騨守正篤に嫁いだ妹の苗姫に暮れのあいさつの品を送った時に添えた手紙です。
写真は、筆架です。松寿院が事実上家政を担当していた時期に使用されていたとされます。島津家の家紋が金色で散らかされています。
写真は、重箱です。松寿院の御側役であった河東家が、松寿院からいただいたものです。
写真は、松寿院のお墓と西之表港築島・沖の岸岐です。写真の上は、エピソードや詠歌を記した紙を貼り合わせて一巻にしたものです。
写真は、平山優子の肖像画とお墓です。平山優子は、種子島家家老の娘として生まれ、幼いころから勉学に励み、人が舌を巻くような才女であったとされます。文豪西村天囚は、優子の娘浅子の子で、優子の孫にあたります。また、山田歌子と和歌を通じて友人となり、互いに切磋琢磨して歌作りに励み種子島の歌風に大きな影響を与えた。そのお墓には、歌が刻まれた看板があります。
写真は、優子の詠んだ短歌です。「和田の原八十島こゆるとしなみの かひある御代にあひにけるかな」訳は、大海原の多くの島々に寄せては超える大波のように、こんなに高齢になるまで生きて、生きがいを感じるこの御時代に生きあえるとはしあわせに思うことですよ。
写真は、山田歌子の顕彰碑とお墓です。歌子は、京都で生まれ、和歌を縁で薩摩藩京都留守居役の山田市郎左衛門清安と結ばれた。歌子を連れて薩摩へ帰郷した清安は、薩摩藩第28代藩主斉興公の跡目相続争いの中心人物として切腹を命じられ、歌子も夫の積みに連座して、嘉永3年(1849年)種子島へ配流となった。その後、歌を通じて友人となった平山優子と互いに切磋琢磨して、歌作りに励んだのである。
右の歌は、「夢にだにまだ知らざりし荒磯の 波を枕のもとにきくかな」訳は、夢にさえ見たこともなく、知らなかったこの島(種子島)の荒波の音を、寝床の枕もとで聞くことであるなあ。
写真は、増田周袈裟女のお墓と記念碑です。袈裟女は、増田中之町の百姓の娘で、歌がとても上手で才智にたけた評判のよい女性であった。若い女の身をかえりみず牛之原牧の一部を中之町に分譲されるよう島主に願い出たり、また、増田浦の石高の引下げを 得意の歌に託して主遠(しうたち)に訴えるなど 村のために尽した人物です。
写真は、上門袈裟女です。増田周袈裟女を描いた絵画です。現在、増田中之町公民館に掲示されているものです。
写真は、牛野豊女の南種子町西海牛野です。右の写真は、牛野トヨ女の顕彰碑です。豊女は、島間の百姓の次女として生まれ、明治初年この地で夫喜作と塩焚きを営んでいた。牛野トヨ女は、三人の子供を抱えながら病身の夫婦に生まれた乳呑み児を預かり学齢期まで育てたのち両親に返した。国じゅうが貧窮にあえぐなかトヨ女の功徳は多くの人々の心を動かし時の県令もこれを賞した。
これは、鹿児島県初代県令大山綱良から与えられた賞詞です。
武田つるは、西之表野首に生まれ、近くの武田椎信と結婚。四男一女の子宝に恵まれ幸せに暮らしていた。しかし、西南の役が勃発し、夫惟信は種子島私学校の人々と従軍し、熊本で戦死します。それを聞いたつるは、生後6か月の乳児を背負い種子島を出発して、鹿児島から熊本まで歩いて向かった。何日もかけてようやく到着した古戦場で、夫の遺骨を探し出して、種子島に遺骨を持ち帰ったのです。出発してから35日後のことであった。
古市静は、西之表中野に生まれ、幼いころから向学心が強く、学問への熱意は並ではなかった。30歳で、東京女子師範学校へ入学するが、肺病を患い退学する。その後、鹿児島幼稚園の新設に関わったりするが、上京し、自宅で「時習女学校」を開設する。明治19年には、東京で駒込幼稚園(現・うさぎ幼稚園)を設立し、初代園長を務めた。
大木ウメは、西之表西町に生まれたが、13歳の時に母が亡くなり、父は病気で寝たきりであった。そのような環境の中でもウメは、苦労を見せず、笑顔で日々を送っていたので、近所の評判となっていた。このウメの行いを偶然耳にした県知事は、とても感激し天皇誕生日の佳節には、知事より表彰状が贈られた。また、儒学者前田豊山先生は、ウメの売る餅に「孝行餅」と名付け、立派な立て看板も寄贈した。
写真左は、孝行茶屋の立て看板です。前田豊山先生が渡邊昌蔵、遠藤家彦、平山円、上妻醇と相談して、立派な看板を寄贈した。
馬場愛子は、滋賀県の医師一家に生まれ、32歳の時に東京女子医学専門学校を卒業、翌年、中種子町増田出身の医師馬場農夫雄と結婚し、西之表市東町で開業。愛子が49歳の時に夫が他界する。その後、西之表町初の女性議員として務め、それと同時に、幼児教育の大切さを訴え、めいろう幼稚園を開設し、初代園長となった。
馬で往診していた時に使っていた馬鞍です。オランダ製のもの。
写真は、種子島百人一首です。明治23年(1890年)西村詠山によって編集され知覧行儀によって出詠者100人の人物画まで描かれている。
歌会で使用されていたもので、大きい硯1個と小さい硯20個がセットになっている。
※ 2018年11月30日(金)、種子島開発総合センター「鉄砲館」で、明治に躍動した種子島の女性たち展の展示資料を紹介しています。この動画の中には、松寿院、平山優子、山田歌子、増田周袈裟女、牛野豊女、武田つる、古市静、大木ウメ、馬場愛子の説明、展示品および短歌などを鉄砲館コンシェルジュの解説で、増田周袈裟女は、ご親族のお話しも収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
【明治に躍動した種子島の女性たち展 種子島開発総合センター「鉄砲館」特別展】