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種子島家の祈願寺であった慈遠寺

八坂神社境内にある慈遠寺跡顕彰碑

八坂神社境内にある慈遠寺跡顕彰碑です。慈遠寺は大同四年(西暦八〇九年)奈良興福寺による末寺として創建薩南諸島の鎮護の大伽藍であったという。

現在、ここは八坂神社で西之表港は、すぐ、この手前にあります。この地は種子島家の祈願寺であった慈遠寺跡(じおんじ)地です。慈遠寺には、三十六坊もあった宿坊があり、島内外の宿泊者の多くは、ここを利用していました。もちろん鉄砲伝来時の南蛮船の乗組員も、ここで長期滞在しています。

この神社の周囲には、アコウの大木が生息しています。特に写真左のアコウは、幹の直径が1m以上もあり、その歴史を物語っています。

神社の前に大きな鳥居がありますが、その右に木で造られた小さな鳥居もあり、その奥に宮が建てられています。拝殿の左右には、手洗い場もあります。そして、拝殿の奥に神殿があり神様を祭っています。

その周囲は石が積まれ、また神社の右に細い階段があって、北側にある種子島家の御坊墓地に通ずるようになっています。

また、左側に昭和53年7月西町町内会により慈遠寺跡地顕彰碑が建てられています。そして左横には、慈遠寺跡地の案内板があります。鉄砲伝来で西洋との交流により、鉄砲を始め、火薬、焼きパン、蒸しパン、樟脳、煙草、はさみなどの文化がいち早く種子島に紹介されています。また、キリスト教伝導者のフランシスコ・ザビエルも、天文20年(1551年)11月下旬ごろインドへ帰る途中、種子島に寄ったといわれています。慈遠寺は、種子島で西洋文化の拠点だったのです。

現在の八坂神社境内

現在の八坂神社境内です。写真左が春日山方向です。

慈遠寺跡案内板

慈遠寺は種子島最古の律宗の寺院で、南島随一の規模を有していたという。その後、明治時代廃仏毀釈により廃寺となった。

慈遠寺由来の案内パネル

慈遠寺境内の広さは四町歩(四ヘクタール)といわれ、釈迦堂、祖師堂、社檀、拝殿、庫裏、宿坊等があり、名残りとして昭和十五年ごろまで素晴らしい「くろ松」の老松として繁っていたという。

池之坊案内板

慈遠寺は南島唯一の規模を誇る寺院であった。その中の池之坊は僧侶の住居だった。

慈遠寺境内の様子を描いた地図

慈遠寺境内の様子です。慈遠寺には、三十六の宿坊があったとされる。

慈遠寺跡案内板

慈遠寺は、明治初年廃仏毀釈により廃寺となった。その名残を留めるものは、「慈遠寺」の文字が刻まれた手水鉢のみとなった。

八坂神社境内にある慈遠寺跡顕彰碑碑文

写真は、顕彰碑の碑文です。天文十二年(西暦一五四三年)八月南蛮船が漂着乗組員の百余名はこの宿坊に半年生活するになったと。その間鉄砲、タバコ、医薬品、パン、鋏、洋馬等を伝えられ、西洋文化が伝わった。

【撮影場所】
鹿児島県西之表市西町八坂神社境内
【撮影日時】
2014年10月4日(土)/10時01分〜10時09分
2014.10.12〜