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南国製菓兵六餅の絵巻も発見された資料展!

種子島開発総合センター(鉄砲館)で、令和元年7月26日(土)〜令和元年9月24日(火)までの期間「上妻家文書展」が実施されてきました。

種子島島主である種子島家の筆頭家老の上妻氏。その上妻家の住宅を、平成28年(2016年)に西之表市が取得し、住宅内を整理する中で、数多くの貴重な古文書類が発見されています。

鉄砲館では、発見された貴重な古文書類の整理、修復、復元作業を現在進めています。今回、修復、復元を終えた約400点の資料を中心に公開し、中・近世の種子島の動静や県指定の文化財「種子島家譜」の記述を裏付ける資料などを通して、その古文書から郷土の歴史のあゆみを知ってほしいとしています。その特別展の資料などを撮影させていただきました。

なお、上妻家文書展の詳しいことは、種子島開発総合センター(鉄砲館)(0997-23-3215)へお問い合わせてください。

上妻家文書展コーナー

こちらが、上妻家文書の展示コーナーです。

法華経祭文献上の際の願文の展示資料

写真は、「法華経祭文献上の際の願文」です。」永正15年(1518年)、第12代島主忠時公が16歳から始めた法華経千部読誦の6巡目を終えるに際し、記した願文。

それまでの5千部は祖師(日蓮か)のために行い、最後(第6番目)の千部は「両寺」で100人以上もの僧侶を招き、「西殿」や一門、部類眷属(三島諸侍所従人民)の繁栄のために行ったと記す。

第16代島主久時公の居城を内城に決定した時の起請文の展示資料

「第16代島主久時公の居城を内城に決定した時の起請文」。第16代島主久時公は、居城に石ノ峯(現在の熊毛支庁)と内城(旧榕城中)の地を選び、神前でクジによってその吉凶を定め、石之峯に居ることを決定する。しかし、すぐに内城に還りたいと思うのであった。

第14代島主種子島時尭新當流鑓十門智合位の許状の展示資料

写真中央下の巻き絵は、「第14代島主種子島時尭新當流鑓十門智合位の許状」です。種子島家譜、第14代島主う種子島時尭公の項に記載されている内容を裏付ける史料である。

新富流とは、室町時代中期に飯篠家直によって創始された「天真正伝香取神道流」のことを指すのが定説であり、その槍術について伝授することを許され、伝えられたとする免状である。この許状に描かれている人形の絵図は類例が少なく、貴重な資料である。

第22代島主久照公からの書状の展示資料

写真は、「第22代島主久照公からの書状」。第22代島主久照公(佐渡)より上妻七兵衛宗愛(第32代)を文書方係に任ずるとする書状。上妻家は、上妻隆直(第28代)が家譜の編纂を任されたときより、代々文書の事を預かる役職を任されていた。

弾正からの書状の展示資料

写真は、「弾正からの書状」。弾正(第19代島主久基公もしくは第20代島主久達公)より上妻九郎左兵衛に、種子島平左衛門の跡の見習役として「物奉行見習・唐船方請込」を申し付ける書状である。

家譜編集に就き種子島佐渡の申覚書の展示資料

写真は、「家譜編集に就き種子島佐渡の申覚書」。種子島家譜は、延宝元年(1673年)、第18代島主久時公の命を受け、上妻隆直が再編し、元祖信基公から延宝5年(1677年)までの編纂を追える。その後、他の者に編集を命じるが、上手くいかなかったため、第22代島主久照公(佐渡)の命により、家老職兼記録方として上妻九郎左衛門宗恒に、再び旧家譜からの編纂を命じる書状である。

増田清浄寺のお盆の祭礼の展示資料

写真は、「増田清浄寺のお盆の祭礼」。種子島の由緒ある古いお寺の一つである増田の清浄寺は、第11代島主時氏校が創建したと伝えられ、本源寺の末寺である。

第14代島主時尭公も厚く信仰していたといわれ、永禄年中に大堂宇を建立し、清浄寺の号を公称、永禄5年(1562年)10月7日には、本能寺の日与上人筆一幅を寄進している。

この文書は、当時増田村の領主家であった上妻家が清浄寺のお盆の祭礼の際に、寄進額を増やすことを伝えるもので、当時の清浄寺への厚い信仰がわかる貴重な史料である。

本源寺本堂の鰐口・御影堂・十羅刹堂の寄進の展示資料

写真は、「本源寺本堂の鰐口・御影堂・十羅刹堂の寄進」。種子島家譜によると、永正16年(1519年)、本源寺が火災により焼失してしまう。しかし、2年後の大永元年(1521年)には、本源寺は再興を果たす。

この文書は、本源寺再興の際に、上妻家第23代右直が先祖の供養と共に寄進した物品の銘文を江戸時代に写したものである。

※文書には第15代と記載しているが、当時種子島に代官として来島した第9代家真を初代として考えていたためである。

物奉行を任ずる書状の展示資料

写真は、「物奉行を任ずる書状」。上妻惣左衛門に平山平右衛門の跡役(本役物奉行、同高十石ほか)を任命する書状。種子島家から送られてきたと考えられる。

上妻七兵衛への改名の覚の展示資料

写真は、「上妻七兵衛への改名の覚」。御近習(主君のそば近くに仕える者。上妻家七兵衛のこと)が、上妻惣左衛門〇〇〇(欠けていて不明。恐らくは差出人の子ということと考えられる)を「七兵衛」に改名させるということを申し出る書状。

上妻惣左衛門の物奉行辞退の願出の展示資料

写真は、「上妻惣左衛門の物奉行辞退の願出」。安永7年(1778年)2月、御物奉行見習を仰せ付けられ、9月に本役(御物奉行)を仰せ付けられる。以来、奉仕するも、去る夏大坂において大病を煩い、快方に向かい、大坂から帰るときも、時々、再発していた。このような状態にて御役に就いたままでいるのはよろしくなく、また他の役人にも迷惑を掛けることにもなるので、御役御免を仰せ付けられるよう願い奉る書状である。

旧上妻家住宅主屋の配置図

写真は、旧上妻家住宅主屋の配置図です。

上妻家の家紋

上妻家の家紋です。日の丸扇子が3つ組み合わされたものです。

旧上妻家住宅入口

旧上妻家住宅入口です。門は、主柱を磨き丸太とする腕木門で、鹿児島県内唯一と考えられるものです。

上妻家住宅の屋根裏から発見された「棟札」

写真は、上妻家住宅の屋根裏から発見された「棟札」です。棟札には、寛延4年(1751年)の年号が記されており、この棟札によって上妻家住宅の建築念が判明した。

種子島において、建築年代が確認されている住宅(屋敷)としては、島内最古級のものである。

南国製菓の兵六餅

写真は、「南国製菓の兵六餅」です。大石兵六のモデルは、種子島家第19代島主う久時の子憲時(兵馬)という説がある。

大石兵六夢物語

「大石兵六夢物語」です。舞台は、鹿児島の吉野。略応元年という昔の八月下旬、若侍が集まり、白銀坂あたりで狐に化かされ、坊主にされることを話題にしていた。すると、その中の一人の大石兵六が退治に出かけることになる。これを聴き知った狐たちは、妖怪に化け兵六を脅かすことにする。

「大石兵六夢物語」にでてくる妖怪の「蓑婆」、「山辺赤蟹」

写真は、「大石兵六夢物語」にでてくる妖怪の「蓑婆」、「山辺赤蟹」です。「蓑婆」は、やまんばとも言われています。

大石兵六夢物語にでてくる妖怪の絵巻

上妻家住宅から発見された大石兵六夢物語にでてくる妖怪の絵巻です。

上妻家の采配と兜

写真は、上妻家の采配と兜です。

東郷長右衛門からの書状、兵具奉行を任ずる書状、川崎大右衛門祐長からの書状、棒火矢秘伝之書の展示資料

東郷長右衛門からの書状、兵具奉行を任ずる書状、川崎大右衛門祐長からの書状、棒火矢秘伝之書です。

上妻隆直(第28代)家老職辞退を請う書状、二十四匁大筒(鉄砲)の目録、上妻才次郎宗敏への上鹿(鹿児島)の達示の展示資料

写真は、上妻隆直(第28代)家老職辞退を請う書状、二十四匁大筒(鉄砲)の目録、上妻才次郎宗敏への上鹿(鹿児島)の達示です。

種子島時盛の起請文、日高七郎左衛門実伴の起請文、鎌倉流馬具様・馬具各所覚書などの展示資料

写真は、種子島時盛の起請文、日高七郎左衛門実伴の起請文、鎌倉流馬具様・馬具各所覚書です。

※ 2019年9月24日(水)、種子島開発総合センター「鉄砲館」で、上妻家文書展の展示資料を紹介しています。この動画の中には、展示コーナー、古文書の数々、「第14代島主種子島時尭新當流鑓十門智合位の許状」の解説、上妻家住宅の写真、主屋の配置図、上妻家の家紋、上妻家住宅の棟札、南国製菓兵六餅の大石兵六夢物語の絵巻、その絵巻の解説、「大石兵六夢物語」にでてくる妖怪、上妻家の采配と兜の解説などを収録しています。

なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。

上妻家文書展 南国製菓兵六餅の絵巻が発見!種子島開発総合センター鉄砲館特別展

 
【撮影場所】
鹿児島県西之表市種子島開発総合センター(鉄砲館)
【撮影日時】
2019年9月24(水)/12時44分〜14時25分
2019.9.28〜