海岸の陸地にある「鐵砲傳来 葡國人上陸之地」の記念碑です。左に案内板が設置されています。
ここは種子島の最南端の地、南種子町門倉岬の北側にあたります。天文12年(1543年)8月25日、台風の直撃を受けた南蛮船が、門倉岬の海岸に漂着し、異国人が種子島に上陸をした地です。
海岸の土手付近に、この記念碑が建てられています。中央に「鐵砲傳来 葡國人上陸之地」と刻まれ、左に書いた人名が刻まれています。「従五位 男爵種子島時望書」現在の種子島家の方が書いています。刻まれている文字も立派な書体です。
裏面の碑文は、次のように刻まれています。
天文十二年八月二十五日に、南蛮船がこの地に漂着、船員が上陸して鉄砲を伝えた。このことが我が国に鉄砲が伝来した最初の出来事である。この出来事の発端は、その時の地頭である西村織部丞時貫と村松七郎朝光、そして、御側用人の徳永大八祐家らが、その南蛮船におもむこうとした時に、船より鉄砲が放たれたことにある。その音は雷のようであった。西村織部丞らは、大いに驚いて、次の手紙を書いて渡した。「あなた達は、風波によって、漂流して、この地にたどり着いたのか。それとも、海で略奪する者たちか。今、あなた達は、船に兵をのせ、武器を使用した。それは、攻め込んで害をなす者達(冠賊)と同じ行為である。もし、冠賊であるというならば、私たちは兵をもって、討伐するだけである。返答を待つ。」
南蛮船からの返書には次のように書いてあった。「私たちは、冠賊ではない。商人である。求められた商品を積み、さきの日に、とある港を出港し、目的地に向かう途上に台風にあい、漂流し、困り果てていた。たまたま、この地に漂着し、災厄を免れることができた。私たちが冠賊としてきたわけではない証として、火砲(鉄砲)をあなたの国の主に献上したい。」三人は喜び、鉄砲を赤尾木に届け領主である種子島時尭公に献上した。時尭公も大いに喜んで、鉄砲を受け取った。そして、八板金兵衛にその製造方法を伝授させた。
これが、日本における初めての鐵砲製造である。このことによって、武器の威力が増大し、日本の軍制に大きな変革をもたらすことになった。よって、この史跡を不朽に後世に伝えるため、ここにこの碑を建設する。
昭和九年十二月十五日
熊毛支庁長 正七位勲六等 徳田豊美 撰
西村織部丞商 西村時教 書
建設者 南種子村
西之区民同青年団
石工 永井仁之助
平野門倉線門倉岬入口交差点です。← 茎永・上中 ↑門倉岬 → 島間
平野門倉線上陸之碑入口です。← 上陸之碑・前之浜海岸 ↑門倉岬
「鐵砲傳来 葡國人上陸之地」入口です。これより先へ行くと、コンクリートの階段があります。そこまでは草が生えているので、ご注意ください。
これより葡國人上陸之地までは階段です。足元に注意しながら下りてください。160メートル先です。
階段を下りてくると、やがて、海岸が見えてきます。記念碑まではもうすぐです。
葡國人上陸之地です。整備されて見通しもよくなりました。きれいな海岸も楽しめます。
海岸から記念碑方向を撮影したものです。階段もやや急ですので、足元にが十分ご注意ください。
写真は、平成18年5月2日に撮影していたものです。記念碑の表面が海を向いていました。
2018年(平成30年)4月5日(木)、南種子町西之崎原門倉岬に通じる平野門倉線ポルトガル人上陸の地入口から「鐵砲傳来 葡國人上陸之地」までGoProとFEIYU G4手持ちジンバルでの歩き撮りを紹介しています。なお、字幕スーパーには記念碑の碑文の内容を表示しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
【種子島のふるさと情報:ポルトガル人上陸之地までGoProで歩く!南種子町西之】
動画のQRコードはこちら