本源寺に次ぐ島内第二の寺が華蔵山慈遠寺であった。律宗の寺で、大同4年(西暦809年)に奈良の興福寺の末寺として建立された。鉄砲伝来時は、半年間南蛮船の乗組員が宿坊に長期滞在した。慈遠寺の唯一の残存品である。
現在の八坂神社に、種子島家の祈願寺だった慈遠寺がありました。その慈遠寺の唯一の証拠品である手水鉢(ちょうずばち)が残されています。今でいう手洗い場です。
神社の拝殿前に大きな鳥居がありますが、この左側に、この手水鉢が置かれています。巾約1.2メートル、奥行き0.7メートル、高さ0.8メートルの大きさです。大きな字で「慈遠寺」と刻まれており、現存品はこれだけしか残っていません。
この手水鉢の位置については、「慈遠寺跡地」、「八坂神社」の写真で確認することができます。
現在の八坂神社境内です。手水鉢は鳥居左に残存しています。
慈遠寺由来です。慈遠寺境内の広さは、四町歩(四ヘクタール)といわれ、釈迦堂・祖師堂・社檀・拝殿・庫裏・宿坊等があり、名残りとして昭和15年まではすばらしい「くろ松」が老松として繁っていた。
慈遠寺の配置図です。手水鉢は、おそらく、拝殿、客殿のそばにあったのでしょう。
慈遠寺の最後は、明治維新の夜明の嵐廃物・希釈の狂風が吹き荒れる中で一朝にして焼き打ちされ灰尽となる。
特に天文十二年(1543年)前後には、琉球・南蛮貿易が盛んで、泉州堺船、紀州熊野船が度々寄港し宿坊に宿泊していた。紀州根来寺の杉の坊(津田監物)、堺の絵師、珠幸、同じく商人橘屋又三郎が来島。宿坊に滞在し、種子島銃及び西欧文化の国内伝播に功を残した。
※ 2013年4月27日、慈遠寺跡地の手水鉢を撮影したものです。動画の中には、慈遠寺の案内のパネル、手水鉢などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。