鉄砲伝来悲劇のヒロイン若狭のお墓です。蘇鉄の根元で眠っているのです。
鉄砲伝来にまつわる悲劇のヒロインとして語り伝えられている若狭は、刀鍛冶八板金兵衛清定の娘でした。金兵衛はポルトガル人から譲り受けた鉄砲の国産化に情熱を燃やしていましたが、銃身の手元に使っていたネジの切り方がどうしても分からず、日夜考え苦しみ難儀をしていたといいいます。
そんな父の姿を見るたびに若狭は、胸が痛み何とかしてやりたいとの思いが、日に日に強くなるのでした。そして若狭は、とうとうポルトガル人の妻となることを決心していきます。こうして念願の国産銃が誕生していったのです。
「月の日も大和(やまと)の方ぞなつかしきわが二親(ふたおや)のあると思えば」この歌は、若狭望郷の歌といい伝えられています。
天文13年(1544年)若狭は、種子島への復航船に乗り込むことができ、ふるさと種子島の地に着いています。 そんな或る日、突然の急病で若狭は死んでしまい、八板家で葬儀が行われましたが、南蛮人は涙を流さなかったと伝えられています。何と哀れなことかと思いますが...
ところで、上の写真は若狭姫の墓を写しています。左側にソテツが見えていますが、その前の小さな石が若狭の墓なのです。右側の細長い石碑は、若狭忠孝碑で墓ではありません。
そして、若狭墓地右の入口に、海音寺潮五郎氏の歌碑も並んでいて、その歌碑にはこう書かれています。
「あはれここ若狭の 墓か白砂のもろく 崩るゝ海のべの丘」
墓地の奥には、墓地案内のパネルや若狭望郷の歌碑も設置されています。
西之表市田屋敷の田屋敷実高線沿いにある「若狭墓地入口」の標柱です。
田屋敷実高線の若狭墓地入口です。↑種子島高校 ↓国道58号線 → 若狭墓地
若狭は、大永七年(西暦1527年)丁亥4月15日、鉄砲伝来のときの鍛冶八板金兵衛清定の娘として生まれています。
父清定は、第14代島主種子島時尭公の命により、ポルトガル人から購入した鉄砲の国産化を試み、日夜苦心の末筒底をふさぐねじ止めの部分がどうしてもできず、ポルトガル人に製法を問うと娘の若狭を嫁にくれたら教えてやるといわれた。
若狭墓地全景です。中央に若狭忠孝碑があります。
父の難渋(銃底をふさぐ雌ネジの製法)を救うため南蛮人に嫁いだ若狭は、わが国における国際結婚第1号といえる。
若狭の詠んだ句「月の日も 大和の方ぞ なつかしきわが二親の あると思えば」
若狭は、ポルトガル人の妻となったが、その後、シンガポールまで行ったらしいが、異国での生活が合わずに翌年(1544年)帰島して、以後外国へは行かなかったとされます。
若狭墓地の案内図です。蘇鉄の根元でひっそりと眠っています。
海音寺潮五郎先生が詠んだ句「あはれここ若狭の 墓か白砂のもろく 崩るゝ海のべの丘」
海音寺潮五郎先生は、昭和21年2月初旬に約1か月間西町の八板康夫氏宅に滞在した。
2013年(平成25年)4月21日、若狭姫墓地を撮影したものです。動画の中には、若狭姫墓地の墓地案内のパネル、忠孝碑、歌碑、若狭姫のお墓などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
【種子島の名所・観光スポット:鉄砲伝来悲劇のヒロイン若狭(わかさ)姫墓地】
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