南種子町門倉岬入り口にある鉄砲像です。この地が、日本国において初めて鉄砲を撃った所であり、鉄砲伝来の地です。
天文十二年(一五四三年)八月二十五日、種子島の最南端門倉岬付近に台風の直撃を受けた南蛮船が漂着して、船には百人あまり乗船していて、その中にポルトガル人の商人も三人いました。
前之浜海岸に漂着した南蛮船は、南種子門倉岬から二日がかりで、八月二十七日島主の住む西之表港に曳航されています。
ポルトガル人が上陸したとき、鉄の筒のような物を手に持っていましたが、それで遠くの的に狙いをつけて引き金を放つと、稲妻のような光りと落雷のような轟音を発したと同時に、的は砕け散ったのです。
今まで目にしたことのない代物の威力に、度肝を抜かれた島主種子島時尭は、これをポルトガル人から譲り受け火薬を家臣笹川小四郎に、鉄砲を鍛冶の八板金兵衛に命じて作らせたのです。
鉄砲はその年の冬になって、形は伝来のものとほとんど違わないものができたが、どうしても筒を塞ぐ雌ネジの切り方が分からずにいました。そんな試行錯誤の結果、張り詰めという方法でできた鉄砲は、天文十三年(一五四四年)屋久島の奪回作戦で、初めて実戦で使用されたが、不発や暴発が頻繁に発生し、危険を伴った欠陥銃であったといいます。しかし、この鉄砲の威力は、事故多発の欠陥銃であったとはいえ、その殺傷能力は、今までの武器に比べて比較にならないほど抜群だったのです。そして本土にも流出していき種子島張りとして名を残しています。
鉄砲伝来その一年後、天文十三年の春、再び南蛮船が種子島の東海岸に来航してきます。その南蛮船の中に、鉄砲の製作に詳しかった人物が乗船していたため金兵衛は、彼にネジの切り方を教わっています。そのネジの完成で、完全な火縄銃を作ることができたわけです。金兵衛が作った火縄銃は、橘屋又三郎を通じて堺、そして瞬く間に日本各地に普及していきます。鉄砲は、最強の武器として戦国武将が注目していきますが、その中で織田信長は、この鉄砲をいち早く戦術に使って国内統一を果たしています。こうして短期間の間にわが国も近代戦術へと変化していったのです。
南種子町西之崎原県道75号線門倉岬入口交差点です。← 門倉岬 ↑島間 → 上中
種子島最南端の地門倉岬です。鳥居横にある鉄砲像です。
門倉岬の海岸です。台風の直撃を受けた南蛮船が漂着した場所です。
ここは、前之浜海岸の西側に位置しています。これより先に、異国人上陸の碑があります。
西之表市わかさ公園にある「鉄砲伝来由緒」です。日本・ポルトガル友好記念碑とともに設置されたものです。
毎年10月門倉岬で、鉄砲伝来記念式典を行っています。写真は、南部鉄砲隊による火縄銃の試射の模様です。平成25年10月12日のものです。
※ 2015年(平成27年)10月17日(土)、南種子町門倉岬で行われた第16回鉄砲伝来記念式典の模様をダイジェストとして紹介しています。この動画の中には、種子島火縄銃南部鉄砲隊の試射、記念式典神事、子ども鉄砲隊による試射などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。