種子島開発総合センター(鉄砲館)で、令和2年11月28・29日(土・日)の期間「種子島西之表市いけばな展」が実施されています。
展示室には、種子島でのいけばなの歴史、羽生慎翁翁、河東長五郎に関する作品などが展示されています。また、29日には、いけばな体験も実施されます。そのいけばな展示資料、作品などを撮影させていただきました。
なお、種子島西之表市いけばな展の詳しいことは、種子島開発総合センター(鉄砲館)(0997-23-3215)へお問い合わせてください。
こちらが、いけばなに関する歴史、羽生慎翁に関する資料が展示されています。
いけばなの歴史です。いけばなの起源は一般的に、仏教とともに伝来した供花にあるとされます。また、神を招く依り代として常緑樹を立て、花を飾った日本古来の習俗から来たとする説もあります。
明治維新後、政府が「いけばな」を良妻賢母の養成目的で教育科目に取り入れ男性中心から女性へと普及してきました。
写真は、羽生慎翁に関する表札です。右は、華道教授 梅陰亭月窓と書かれています。現在の月窓亭の名前は、号の梅陰亭月窓から付けられたものです。
写真は、羽生慎翁道則の写真です。文政9年に生まれ、明治34年(1901年)2月に亡くなっています。種子種子島での華道の起こりは、寛政4年(1792年)道潔が華道池坊の師弟である薩摩藩丸田氏に弟子入りしたことに始まるとされています。
道潔の孫・慎翁も、道潔の影響を強く受け、京都へ遊学。池坊家元に華道を学び、種子島に広めます。明治12年(1879年)には、薩摩・大隅両国の会頭職に、3年後には大日本総会頭職となり、明治22年(1889年)には、池坊東京出張所初代所長をつとめました。
写真は、羽生慎翁が池坊大日本総会頭職になった時の辞令です。
写真は、羽生慎翁の花絵図で木版による華道教本です。300年前の花材、花瓶、生け方などが紹介されています。
写真は、「後百花式」です。文化5年(1808)池坊いけばな図集として続編が刊行され、地方の有力な門弟作品100点が収録されているが、そのうち37点は種子島の門弟の作品で隆盛を築いてきました。
写真は、河東祐五郎に関連する資料です。幕末の万延元年(1860)に西之表野首に生れた河東祐五郎は、31歳の時に父の跡を継ぎ、池坊充許皆伝を受け、種子島のいけばなの発展に尽くしてきました。
写真は、河東祐五郎の愛用した花台です。華道だけではなく、歌道にも優れ、茶道では師範として種子島の文化発展に尽くしてきました。
写真は、通路に展示されたいけばな作品です。季節の材料を使用して今の時期にあった作品に仕上げていました。
写真は、池坊すみれ会倍さんの作品です。大きめの材料を使い、鮮やかさに溢れ、また、ダイナミックな作品に仕上げていました。
写真は、上妻さんの作品です。シンプルな作品で、これから開花するスイセンを生けてありました。
写真は、ロビーに展示されていたいけばな作品です。
写真は、29日(日)に行われたいけばな体験です。子供から大人まで幅広い人が参加して生け花を楽しみました。
生け花の先生から手ほどきを受けながら自分のオリジナルな花を生けていました。
親子で、手ほどきを受けながら上手に生けていましたよ。
写真は、出来上がった作品です。中央に鮮やかな大きなガーベラを配置してバランスの取れた生け花に仕上がっていました。大変上手でした。
※ 2020年11月28日(土)、種子島開発総合センター「鉄砲館」で取材した「種子島西之表市いけばな展」の展示資料を紹介しています。この動画の中には、展示コーナー、展示資料、いけばなの歴史、羽生慎翁に関する資料、河東祐五郎に関する資料などを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
※ 2020年11月28日(土)、種子島開発総合センター「鉄砲館」で取材した「種子島西之表市いけばな展」のいけばな作品を紹介しています。この動画の中には、ロビー及び通路に展示されたいけばな作品を収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。
※ 2020年11月29日(日)、種子島開発総合センター「鉄砲館」で取材した「種子島西之表市いけばな展」のいけばな体験の模様を紹介しています。この動画の中には、館内でのいけばな体験の模様を収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。