西之表市種子島開発総合センター(鉄砲館)で、種子島が生んだ偉人西村 天囚展が行われています。2024(令和6)年7月26日(金)、その企画展を取材させていただきました。
西村天囚は近代日本を代表する漢学者・ジャーナリストです。本名は時彦。号は天囚または碩園です。現在鉄砲館が建っているこの場所で、慶応元年(1865年)に生れました。早くに父を亡くし、郷里の儒者前田豊山に学んだ後に上京して東京大学古典講習科に入学。22歳で社会風刺小説「屑屋の籠」を出版し、一躍文名を上げました。24歳で大阪朝日新聞社に入り、後に主筆となります。朝日新聞の有名コラムとして120年続いている「天声人語」は天囚が命名したものです。44歳の時には特派員として世界一周旅行にも参加しています。
その企画展の模様を掲載しています。
鉄砲館の企画展コーナーです。天囚の書物、書斎、礼服、貴重な写真などが展示されています。
これは、天囚が書いた書物です。左が「南島偉功伝」、右が「学界の偉人」です。「南島偉功伝」は、種子島家の功績をまとめたものです。
左の書物は、天囚が22歳の時に初めて書いた「屑屋の籠」です。屑屋が集めた廃品を通して、社会を鋭く批判する風刺小説になっています。
こちらは、世界一周旅行の時のシルクハットと参加バッジです。左は「欧米遊覧記」を読んだものです。
こちらは、世界一周旅行の時のワシントン大統領の住宅前での写真です。家がとても質素だったことに天囚は驚いたといいます。
これは、天囚が主宰していた文人サークルの寄せ書きです。景社とは、天囚の住まいの近くにある大阪天満宮の菅原道真を慕う文会という意味です。
これは、大礼服です。明治時代に制定された最上級の礼服です。天囚は大正10年(1921年)に宮内省御用掛に任ぜられ、東京に転居しました。
これは、大礼服を着た天囚の写真です。
これは、天囚が授与された勲四等瑞宝章の勲章です。
これは、「福寿」の二文字を大書したものです。掲示にふさわしいと冷ます。
これは、横綱西ノ海を囲んだ写真や西ノ海が化粧まわしをした写真です。西之表市川迎出身の力士で、本名は牧瀬休八でした。
これは、「西村天囚先生誕生之地」の石碑です。昭和16年、天囚生家の跡地に、熊毛郡教育委員会によって建てられた石碑(写真左)です。昭和58年に、鉄砲館がこの地に建設され、台座が不安定だったことから地中に埋められ現在に至っています。
これは、天囚が呼びかけにより設立された財団法人懐徳堂記念会です。再建されますが、唱和20年大阪大空襲によって消失するまで多くの市民に親しまれてきたとのことです。
戦後の唱和24年、戦災を免れた資料などを大阪大学に寄贈されたということです。
これは、木製天図です。中井履軒が作成した木製回転式の天体模型図です。
西村天囚没後100年を記念しての企画展です。7月13日〜9月15日まで実施されています。ご家族そろって観覧したらいかがでしょうか。
企画展については、鉄砲館(0997-23-3215)にお問い合わせてください。
2024(令和6)年7月26日(金)、種子島開発総合センター(鉄砲館)で取材した企画展「西村天囚展」の展示作品を紹介しています。この動画の中には、企画展のコーナー、天囚の書物、世界一周旅行会の時のシルクハット、参加バッジ、写真、在職中の写真、自宅書斎の写真、大礼服、紋付羽織を着た写真、天皇家から下賜された記念品、花瓶など、読騒盧の扁額、前田豊山先生との手紙、福寿の二文字語句、天囚が揮毫した長生殿裏春秋富、鉄砲伝来紀功碑の写真、横綱西ノ海の写真、落款印、西村天囚先生誕生之地の石碑、福島安正の書簡、懐徳堂の資料、木製天図、中井履軒の人体解剖図説、中井竹山を描いたものなどを収録しています。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。